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日々雑感(2020)



12 月 31 日 大晦日
いやいやいや、2020 年ももう 12 月 31 日まできてしまいました。今年もあっという間に終わってしまいます。



今年のみかん出荷手伝いは 12 月 23 日で無事に終わりました。出動回数が 25 回、運んだコンテナ数が 721 個です。「無事」と
書いたのは、コンテナが崩れたり、交通事故に遭ったりせずに終わったということだけでなく、8 月に発症した五十肩や途中から痛みを
感じるようになった左手首、右膝の裏がそれ以上悪くならずに済んだということです。

体の痛い箇所が治ったわけじゃありません。五十肩はこのまま治りそうな気配がありますけど、手首、膝裏は難儀するかも。

12 月 31 日 また閉館
またまた悲しいお知らせです。松山にあるシネマサンシャイン大街道が 2021 年 1 月 11 日をもって閉館するそうです。報道によると、
収支悪化のためいつかは閉館しなければならなかったようですが、コロナ禍がそれを早めたとのこと。





まあ、緊急事態宣言解除後の 6 月に見に来たときは観客が私だけだったので、危惧していました。残念ながらその危惧が現実に
なりました。

松山市の郊外にも同じ興行会社が経営するシネマコンプレックスがあるので、映画がまったく見れなくなってしまうわけではありません。
だがしかーし、東京のシネスイッチ銀座にかかるような、これぞ映画というような名画を見られなくなる可能性は大です。

例えば、「パレードへようこそ」というイギリス映画。地味で評判にもならなかったこの映画をよく上映してくれたなあと思います。
おかげで、愛媛にいながら、これまで見た映画の中でもトップ 10 に入りそうな名画を見ることができました。

興行会社は、このような作品も系列配下の映画館でも見られるようにすると言ってますので、その言葉に期待したいと思います。

12 月 31 日 「ジャズ喫茶 ベイシー」
映画みてきましたよ。当初、愛媛での上映予定はなく、最も近い上映館は大分でした。フェリーで別府まで行くしかないかと思って
いたら、松山のシネマルナティックで上映することになったので助かりました。ありがとうシネマルナティック。



で、映画です。これはドキュメンタリー映画なので評価するのが難しい。「ベイシー」に興味のない方には退屈な映画であることは
間違いありません。でも、行ったことのある方、行きたいと思っている方には価値があります。

「ベイシー」については、目で見ることのできる紙ベースの情報はこれまでにもありました。マスターの菅原さんの著作もありますし、
村松友視さんが「ベーシーの客」という小説も書いています。それに対して、「ベイシー」の売りである、肝心な音を耳で聞かせる
情報は、「ベイシー」で録音されたライブ盤を除いてありませんでした。

それが目で見て耳で聞くことができる映画で残されたことに価値があります。音については、「ベイシー」で聞いたときと同様、いい音
だなあと感じました。でも違うのは音圧です。上映館のシネマルナティックは、小さいとはいえ映画館なので、そこそこの広さがあります。
それに対して「ベイシー」はジャズ喫茶としては広い方ですけど、映画館ほど広くはありません。その狭い空間の中で映画館以上の
音量で鳴らしているんですから、音圧が違います。

二重になっているベイシーの扉を開けた瞬間に感じる音圧。残念ながら、これは映画館では体感できませんでした。

ちなみに、この映画の「ベイシー」はジャズ・ファンの聖地のように言われています。確かに、一関駅でタクシーの運ちゃんに「ベイシー」
といえば説明は不要です。だがしかーし、「ベイシー」の近くにある一関第一高校で教師をしていた友人はその存在を知らず、同じく
一高 OB の女性に尋ねたところ、これまた知りませんでした。

それが良いのか悪いのかは別にして、これも一関にある「ベイシー」の現実です。

「ベイシー」についてはこちらにも書いてありますので、興味があるようでしたらご覧ください。

12 月 31 日 またお会いしました
先日、かみさんと八幡浜の「どーや市場」に魚を買いにいった際、道の駅の駐車場できれいな SR500 を見つけました。SR400 を
見かけることはあっても SR500 は珍しい。近くに行ってキャブトンマフラーや XS650 タイプのドラムブレーキなど、細部を見ていた
ところ、この SR どこかで見たような気が。

そうですそうです。4 月に高知県立図書館に調べものをしに行った際、休憩に入った布施ケ坂(高知県津野町)の道の駅で
見かけた SR です。

その時も同年配と思われるオーナーさんと話したのでした。何でも、SR500 以外にもレストア待ちの CB750F をお持ちだとか。
一般道をメインに結構な距離を走られる方でした。お声をかけたところ、先方も私のことを覚えていてくださいました。今回は朝 6 時に
家を出て八幡浜名物のちゃんぽんを食べにきたそうで、ちゃんぽんを食べにくるのは 4 回目とのこと。わざわざ遠方からちゃんぽんを
食べに来る方がいるんですね。これから、お酒を買って帰ると言ってました。

イヤイヤ珍しいこともあるもんです。奇遇なのでお名前だけでも聞こうかと思いましたが、聞きませんでした。またどこかでお会いしそうな
気がしたから。

今度は私もバイクのときにお会いしたいなあ。

11 月 16 日 菊池清治邸

修復なった菊池清治邸が公開されたので見学してきました。菊池家は、八幡浜で江戸期以降に続いてきた商家で、菊池清治は
そこの主人の名前です。長男が清治の名を引き継ぐことになっており、4 代目清治、7 代目清治のように呼びます。ちなみに、
7 代目清治は八幡浜市長を務めました。



由緒あるお宅で建物も立派なのですが、ご家族が八幡浜を離れたため、家が荒れていました。それを、八幡浜タウンツーリズムの
講師を務める岡崎直司さんを中心に、有志の方がボランティアで維持に尽力した上で、市への移管・修復が決まったという経緯が
あります。

私も 2 年前に誘っていただき、ボランティアに参加したことがあるので、修復前後の写真をご紹介します。

修復前:漆喰がはがれ、土壁が剥き出しになっています。


修復後:漆喰が塗りなおされてまぶしいくらい。


修復前の裏庭の様子:瓦が崩れています。


修復後の裏庭の様子:瓦がふきなおされています。


修復前の邸内


修復後の邸内


修復前の邸内にあった資料:江戸、明治、大正、昭和の資料や生活用品がありタイムマシンのよう。




この建物、一部の部屋を市民の活動に利用できるよう、有料で借りることができます。

無事に復元されたので、有効利用されるといいな。

11 月 16 日 大学受験
ウチの子は高 3 生、そう受験生です。11 月になり、志望校選びが本格化してきました。本人はかねてから東京の大学を志望しています。
でも、本人も親も東京の大学でよいのか迷っています。

というのも、充実した大学生活を東京の大学で送ることができるか不透明なため。

コロナのワクチンが来年早々に開発されたとしても、日本の末端まで出回るのは 1 年以上かかるでしょう。そうなると、大学に入学しても、
1 年生の間はオンライン授業が中心となり、サークル活動もできない可能性大です。

今回、コロナ禍でよくわかったのは、対面でのコミュニケーションの大切さ。授業中のディスカッションや、サークル活動での友人、先輩、
後輩との時間共有からしか得られない経験についてです。

オンライン授業とかなんとかいってますけど、基本的に対面での関係性が構築されているからオンラインでもできるわけで、対面での
関係性なしでオンラインだけやっていたら、学問はもとより、コミュニケーションのとり方などが習得できないのではと危惧しています。

東京や関西など、大都市の大学では徐々に対面授業が再開されつつあるものの、まだまだ比率は低いまま。それに対して、
コロナ罹患者の少ない地方都市では、大都市よりも対面授業が増えています。

折角、東京の大学に入っても、キャンパスに入ることすらできず下宿でオンライン授業しか受けられないのなら、地方の大学に入って、
少しでも対面授業やサークル活動ができる方がいいんじゃないかと思うわけです。

だがしかーし、その前に大問題が。

まずは、入学試験に受からなきゃ。

11 月 16 日 アメリカ大統領選
いやいやいや、アメリカの大統領選挙、どうなるんでしょうね。4 年前、トランプ大統領が誕生したときほど驚きませんが、事前に
報道されていたとおり、ひどい展開です。

11 月 16 日時点で 290 対 232 とバイデン候補が得票数では圧倒的に多いことは明らかです。それでもトランプ大統領は負けを
認めていないといいます。このまま時間切れで政権を移譲するのか、それとももうひと悶着あるのか予断を許しません。

大学生時代に知り合ったアメリカ人は、以前、Facebook 上でトランプ大統領に反対するコメントを投稿していました。しかし、今回の
選挙に関しては驚くほどコメントしていません。バイデン候補の当確が確実になった時点でもです。

Facebook 自体がユーザーから見放されつつあるというのも一因でしょうけれども、あの知り合いでさえも、自分が民主党、共和党
どちらを応援しているか、知り合いに公言できない空気があるものと推測しています。

「物言えば唇寒し秋の風」というのは、日本だけのことじゃないってことですね。

11 月 16 日 みかん運び
結局、今年もみかんを運んでいます。シーズン最初のごく早生みかんはひと段落ついて、今は早生みかんを運んでいます。心配して
いた五十肩については、特定の方向に動かさなければ痛まないため、何とかなりました。とはいっても、重いものを持ち上げているので、
治りが遅くなってるかも。

想定外だったのは左手首と右膝の違和感です。きっと、無理な体制で持ち上げたのがよくなかったのでしょう。手首にはテーピングして
対処してます(スポーツ選手かよ)。

ワタクシ、若い頃から弱っちい体型です。同じ 20kg のコンテナでも、体重 80kg 台の人が持ち上げるのと 50kg 台の私が持ち上げる
のとでは、体への負担が違います。そこに加齢もあるわけですから、体にいいわきゃありません。

とはいえ、みかんの出荷に関する人手が不足しており、やめる選択肢はありません。今年はコロナ禍のせいで、例年なら全国から募集
するアルバイターを今年は募集できないためです。

農協では募集しないものの、農家が個人的に呼び寄せるのは禁止していないので、みかん農家が千葉からアルバイターを呼び寄せた
ところ、PCR 検査で陽性が確認されたケースがありました。やっぱり県外のアルバイターをあてにすることはできないようです。

あと 2 か月、体もつかなあ。


10 月 6 日 瓶ヶ森転じて石墨山
どこか登れる他の山はないかと検討したところ、伊予富士と石墨山が脳裏に浮かびました。伊予富士は瓶ヶ森に近く、天候がさほど
変わらないと考えられるためパス。石墨山は、好天が予報されている東予地区のはずれです。よし、石墨山めがけて転進!

1 時間以上かけて石墨山の登山口まで移動したところ、山の上の方は厚い雲に覆われており、小雨がふったりやんだり。平地では
晴れてきそうだったんですけどね。少し悩みましたが、前回 1 時間 30 分で登れたことから、決行です。カッパを着るほどじゃない
でしょうし、天気も回復傾向のはずですから。



でもね、歩くと結構ぬれちゃうんですね。樹林帯を歩く際、雨はさほど降り込まないんです。そのかわり、強風にあおられて、木の葉に
ついた雨水が降り注いできます。おまけに、足元にはびっしょり濡れた笹がひざ下くらいまではえてます。

登山道も当然濡れているため、木の根も滑れば、急登箇所も滑ります。濡れながら暗い樹林帯を歩いても全然楽しくありません。

急登を追え、尾根に出たら少しは変わるんじゃないかと期待していたのに、尾根では状況がさらに悪化。厚い雲に覆われているのは
変わらないのですが、木が減った分だけ風が強まり、雨が横殴りにあたります。おまけに、濡れた笹で登山道が覆れており、
腰の高さまである笹をかきわけて歩くだけでズボンがびしょ濡れです。カッパを着ようにもとき既に遅し。



今まで水が染みたことのない登山靴も靴下までぐっしょり。以前、一緒に山登りした先輩が履いていたスパッツは、
こういうときのためにあるんですね。よく分かりました。



休憩しようにも乾いた場所は皆無、ザックを下ろすこともできず、歩くしかありません。いやあ、悲惨だなあ。

山頂まであと 1km しかなく、二回目のコースなので、ひたすら前進しちゃいましたけど、初めてのコースだったら引き返すべきでしょう。

山頂に着いたら、ありがたいことに雨がやみました。



カップラーメンで暖をとろうと、かついできたポットのお湯をそそぎます。待つこと 3 分。



あれ、お湯がぬるい。そうでした。朝、お湯を沸かした際、十分に沸騰させなかったのです。沸騰させるとうるさいため、家族に気を
遣ったのでした。

今にも降りそうな雨雲の下、ぬるいラーメンを食べ、逃げるように下山しましたとさ。


10 月 6 日 瓶ヶ森…登山できず
イヤイヤ、久しぶりにエラい目に遭いました。でも、そうなることが予測できたので自業自得ですね。

ゴールデンウィークの頃には、今年は登山は無理かなあと思ってました。でも、コロナ禍については Go To ナントカキャンペーンの
おかげで、移動に対する許容度が増していることと、自身の体についても足首や肩の状態がいいことから、山登りに行くことにしました。
行先は前から気になっていた瓶ヶ森山。

前日の天気予報によると、自分の住んでいる地域は快晴、目的地はというと、朝まで雨、後曇りです。

珍しく早起きできたので、朝 4 時すぎに出発。出発時には星が見えていたのに、高速道で松山を過ぎるあたりから、行くてに真っ黒な
雲が見え始め、イヤーな感じ。目的地近くのインターを降りたら小雨が降ってました。登山口のある石鎚山ロープウェイ乗り場近くに
着いたら、たたきつけるような雨にかわってます。まだ 7 時前。

ふもとでこんな具合ですから、厚い雲に覆われた山頂方面は推してしるべし。7 時半まで待ったものの雨が止むことも空が明るくなる
こともないため、瓶ヶ森は断念しました。

瓶ヶ森山頂は遠いなあ(続く)。

9 月 22 日 死ぬまでに一度はベイシーの音を聞かせたい
JBL というスピーカーがありまして、ジャズ向きと言われてます。その JBL スピーカーを鳴らせたら日本一のジャズ喫茶が
岩手県一関市の「ベイシー」。



JBL の社長がわざわざアメリカから聞きにきたというから、ただごとじゃありません。

音楽好き、ジャズ好き、オーディオ好きを自認する方には、是非、訪問していただきたいものでありますが、岩手はチト遠い。
それに、この 4 月から休業という情報もあります。

行ってみたかったなあと思ったアナタ、この映画で雰囲気だけでもどうぞ。



9 月 22 日 メールを頂戴しました
このホームページを見た方から 2 月にメールをいただいたことは以前書きました。今回、「メグロ SGT」というバイク名がキーワードとなり、
違う方からメールをいただきました。以前、クラシックカーのイベントを見に行った際、かっこいいバイクがあったので写真を「日々雑感 2016」
に載せていたのです。

この方、自分でもホームページをお持ちだというので拝見したところ、まあ凄い方でした。ナント自分でバイクを作っちゃうんですから。
自分で修理、改造をしてホームページに載せている方は多数います。でも、自分でデザインして製図を書き、パイプを溶接して
フレームを作り、そこにエンジンや電装を載せて作る方は初めて知りました。

ご自分のガレージには溶接機、旋盤、サンドブラストなどがあり、必要なものはすべて自分で削ったり、作ったり、塗ったりしています。

オイル交換やチェーン張りくらいしかできない私からすると、エンジンをバラして自分でくみ上げられる方は雲の上の存在、この方は
そのさらに上をいってます。

しかもね、いいなあと思ったのは、製作過程を英語でも公開していること。おそらく、海外のマニアから問い合わせがあり、公開することに
したのでしょう。同好の士との充実したやりとりが類推されます。

私のホームページは具体的な情報のないスカスカの内容です。なので、このような方にお見せするのは恥ずかしい限り。せめて、
見てくださった方が、こいつはマヌケだなあと楽しんでくださればそれで十分です。

9 月 12 日 映画上映会
八幡浜市民文化活動センターの落成を記念して映画上映会が開催されたため、行ってきました。応募したのは 1 本だったのに、
空いているから他のも見ないかと誘っていただき、2 本見ることに。「ニュー・シネマ・パラダイス」、「君の名は」の順です。



「ニュー・シネマ・パラダイス」を見るのはこれで 4 回目です。最初は 1990 年、次にディレクターズ・カット版を見たのが 1991 年、
そして前回が 2010 年でした。そのときも、雑感を書きました。「今度見る時も、いい映画として見られるか楽しみです。」としています。

10 年ぶりにみてもやはりいい映画でした。あらすじは覚えているものの、細部は忘れてしまっているため、新たな発見もありました。

主人公のトトを自分の子と重ねてみてしまうのは前回と同じです。今回の新たな発見は、老人のアルフレードが若いトトに向かっていう、
「この村の連中は、自分が世界の中心にいると思っている」という前後のくだりです。このセリフ、前回見たときには響かなかったのに、
今回は心に響きました。こんなセリフを自分の子どもに言えるかどうかはさておき、良い映画はいくつになっても
新たな発見があるものだと実感しました。

次に見るときはどんな発見があるんでしょ。

9 月 12 日 君の名は
恥ずかしながら「君の名は」を見るのは初めてです。映画公開時、子どもが大騒ぎして見に行ってました。男女の入替りもの? なーんだ、
大林宣彦監督の「転校生」の二番煎じかと、好意的にとらえてませんでした。

だが、しかーし、今回、その印象が間違っていたことに気づきました。男女の入替りに加え、時間を行き来するタイムトラベラーの要素も
加わったストーリーになっており、発想のスケールの大きさに圧倒されました。

時間を行き来することでストーリーを追うのが難しい箇所もあり、終わってから子どもと食事をしながら、あれはこうだったのか、いや
そうじゃないだろうというやりとりをして分かる部分もありました。「お客さんずいぶん難しいはなしをしてるんですね」とお店の方から声を
かけられるほど。「君の名は」について話をしていると言ったら、納得してくれました。

一人だけで見たら理解できないところもあったでしょう。二人で行ったのは正解でした。おかげで理解は深まったものの、昨日は分かった
気になっても、1 日たつとストーリーを再現することができません。結構、難解です。

そうであっても、これは映画ならではのハラハラドキドキを味わえる名作でした。

でもね、あらすじを知っちゃったからあのハラハラドキドキを味わうことは二度とできません。そう思うと残念だなあ。できることなら、
この映画に関する記憶を消してからもう一度見たい映画です。

しかし心配は不要。10 年もしたら私は 68 歳。何もかも忘れて新鮮な気持ちで見られることでしょう(涙)。

9 月 12 日 五十?肩
昨年の日々雑感を読んでいると、やれ足首が痛いだの肘が痛いだのと、我ながら嫌になります。後 2 年もすると 60 歳なのでしかた
ないかも。

そんな折、家の前の川の草刈りをしていた際、肩に違和感を感じました。そのまま草刈りを続けていると、終わる頃には違和感がさらに
大きくなり、夜、眠る頃にはズキズキと痛み、寝返りもうてなくなりました。

この感じ、身に覚えがあります。30 代、40 代にも経験したことがある四十肩です。懐かしいような懐かしくないような。

これになると辛いのは着替えです。シャツを着たり、スーツの袖に腕を通す際など、声をあげずに一人で悶絶したものです。今回は
薄着の季節だったのがラッキーでした。着替える枚数が少なくてすみますから。それでも悶絶するのは変わりありません。

パソコンを使う際も、マウスからキーボードまで右腕を動かすことができず、左手で右腕をもって動かさないといけない始末。
我ながら笑っちゃいます。

インターネットで検索すると、最初の 2 週間は強い痛みを伴う急性期、それを過ぎると動きにわずかな制限はあるものの、日常生活に
支障のない慢性期が 6 か月続き、1 年もたつと自然に治るとあります。1 年かあ。

今日は、発症してから 8 日目。確かに痛みは治まってきており、パソコンを普通に使えます。意外なことに肩より上に手をもっていく
こともできます。それでも、痛みは日によって強弱があるため油断はできません。それに、例年でしたら、10 月〜12 月はみかんの
出荷を手伝う時期。

舌間のおじいさん、今年も出荷するのかなあ。いろんな意味で心配です。

9 月 12 日 低空飛行
低空飛行っていう言葉、あまりいい語感じゃありません。例えば、コロナ禍により経済が低空飛行とか、子どもの成績が低空飛行
なんてね。今回はズバリ、飛行機の低空飛行です。

以前、住んでいた地域は飛行機が沢山飛んでいました。近くの調布飛行場からは伊豆諸島向けの定期便が毎日飛んでましたし、
入間基地の航空自衛隊機も訓練でよく飛んでました。それに対して、八幡浜で飛行機が飛んでいることはまれです。ごくたまに、
ヘリコプターが飛んでいるくらい。

唯一の例外が、昨年くらいから夜間に低空で飛んでくる飛行機です。このあたり、標高が 100 メートル前後の山に囲まれています。
その山の陰から突然飛行機があらわれ、ウチの真上あたりを南北方向に通過していくのです。突然くることや、夜間にしか飛来しない
こともあり、機体をはっきりと見たことはないのですが、周りの山(135m)と同じくらいの高度で通過していきます。

頻度は月に 2、3 回、時刻は 19 〜 23 時の間です。ちなみに、航空法で定める最低高度は人家のない地域で 150m。この付近は
人家があるため、どうみても航空法に違反しています。

次の写真は米軍横田基地のイベントで滑走路の上を低空で通過する輸送機です。音のかんじからすると、ウチの上を通過する
飛行機はもっと低空を飛んでいます。



航空法に違反していると思われることに加え、ウチからみて北の方向、100km 圏内に米軍の岩国基地があることから、おそらく
米軍機でしょう。

まあ、うるさいことを除けばさほど実害はないから気にすることもないかと思いつつ、ちょっと Google 検索してみると、結構な頻度で
事故が起きてますね。ヘリコプターが中学校の校庭に不時着なんてのはかわいい方で、伊方原発の近くにヘリコプターが墜落だの、
隣の西予市の野村ダムに飛行機が墜落なんてのはシャレになりません。何も起こらなきゃいいけど。

8 月 16 日 ギター修理

ギターを修理に出したところ、弾きやすくなって戻ってきました。子どもに言わせると、「(修理前と)まったく別もの」です。

あれ、K 島はギター弾くんだっけ?と疑問に思ったアナタ。その疑問、正解です。実はアタクシ、2 年前からギターを弾いています。

そもそも、ギターに興味を持ったのは、別のページで紹介しているナターシャセブンが原因です。これに触発されて高校生当時、
お茶の水で買ったのが、このヤマハ FG-151 でした。ヤマハのギターの最下位モデル、バイクでいうと原付クラスですね。



これでナターシャセブンの曲を練習したものの、「森かげの花」から「ブラック・マウンテン・ラグ」にさしかかったあたりで挫折してしまい、
それ以降、ギターはほとんど弾いていませんでした。ナターシャセブンの曲自体はコードが少なかったものの、思った以上に難しく、
おまけに変則的なチューニングを使っていたりして、初心者が真似できるようなものじゃありませんでした。

ナターシャセブンのおかげで生ギターが好きになり、それ以降も聞くほうだけはどんどん耳年増になっていったものの、自分では
弾けずじまい。

ところが、2018 年にハンバートハンバートというフォーク・デュオを知ってから、俄然、ギター熱が高まったのです。何か楽しそうだし、
これなら自分でも弾けるかもって思っちゃったんですよね。それに、何といっても CD と同じ音がでることに驚いたんですよ。

CD とギターで同じ音がでるのは当たり前じゃんと思うかもしれません。でも、あーた、40 年前の高校生の頃はレコードや
カセットテープと合わせようとしても、2 つの理由から難しかったからです。一つ目はチューニング、二つ目はレコードの問題です。

一つ目について、当時きいていたナターシャセブンは先に述べたように 1 音下りとか、1 音半下りなんていう変則的なチューニングを
使っていたので、どのように合わせればよいのか見当がつきませんでした。インターネットなんてない時代ですから。

また、当時はギターのチューニングを音叉でしており、正確に合わせるのは難しいものがありました。今であれば千円ちょっとの
チューナーで簡単にチューニングできるんですけどね。おまけに、カセットテープで聞くときはテープ自体が伸びたり、
テープレコーダーの回転ムラの問題で微妙に音がずれることもありました。

二つ目について、レコードの 5 番目の曲なんかは、アームの位置を 5 番目の溝に合わせるだけでも大仕事です。なおかつギターに
戻って準備するのは至難の業でした。慌てると、アームの針で大事なレコードに傷がつきかねず、かといって慎重にしてたら、
曲が始まってしまいます。

今ですと、チューナーでチューニングしたギターであれば、CD と同じ音が簡単にでます。当たり前といやあ当たり前ですけど、
CD からでてくる音と自分の弾いた音が同じなのは嬉しいものです。

ハンバートハンバートが弾きやすいと思ったのは、素人の勘違いで、実際には簡単じゃありませんでした。何と言っても、使っている
コードが難しい。

そんなこんなで気がつくと、高校生の頃よりも熱心にギターを弾くようになってました。それで、あるとき、気づいたんですよね。
音がうまくでないのはギターのせいかもしれないって。なんせ、40 年近く弦を張ったままにしていたギターです。テンションは
弱まっているでしょうけど、ネックが反っているんじゃないかなって。

自分の腕はさておき、まず道具を疑うのは素人アルアルです。

試しに 12 フレットの弦高を測ったら 5mm 以上あります。インターネットを検索すると、3mm を超えると弾きにくいと書いてあるので、
そりゃあコードが押さえにくいはず。

別のギター購入も検討しました。でも、このギター、まだまだきれいですし、ちゃんと弾いてあげていないという思いもあるので、
修理に出すことにしました。ネットで探すと、愛媛にもありましたよ、修理してくれるところが。伊予市にある G-Factory さんです。
マーチンやギブソンのビンテージ・ギターも扱っています。

修理からかえってきたギターを弾いたところ、確かに別ものでした。弾きやすくなった理由は、弦高調整をして 2.6mm くらいに下がった
ことと、弾きやすいカスタムライト弦に交換してくださったからです。

お店の方によると、当時は廉価版だったこのモデル、現在買おうとすると 3 倍くらいの値段になるとのこと。当時は、廉価版でも
Made in Japan だったことと、木の価格が安かったからだそうです。

弾きやすくなったので、また愛着がわきました。練習しなきゃ。

8 月 16 日 久しぶりのウッディ・アレン
ウッディ・アレンの新作「レイニーデイ イン ニュー・ヨーク」が見られるというので松山に行ってきました。久しぶりのアレン作品は
どうだったでしょう?

以下に挙げたのは、ここ 10 年間に観たアレン作品で、☆は 5 段階評価を表しています。「ミッドナイト・イン・パリ」は傑作、「ローマで
アモーレ」もそこそこ楽しめたのに対し、「恋のロンドン狂奏曲」、「ブルー・ジャスミン」、「男と女の観覧車」は救いがなく、
ぐったりした気分で帰ったものです。

2012 ミッドナイト・イン・パリ(Midnight in Paris)☆☆☆
2013 恋のロンドン狂奏曲(You will meet a tall dark stranger)☆なし!
2013 ローマでアモーレ(To Rome with love)☆☆☆
2014 ブルー・ジャスミン(Blue Jasmine)☆
2018 男と女の観覧者(Wonder wheel) ☆☆

直近の 2 作ははずれが続いたので、今回も半ばあきらめていきました。でも、予想に反して楽しい映画でした。親のスネをかじって
片田舎の有名大学に通う大学生、この大学生と付き合っている、これまたお金持ちで田舎出身の女子大生が、ひょんなことから週末に
ニューヨークに行き、ドタバタに巻き込まれるというものです。

こうして言葉にすると、陳腐に聞こえ、ツッコミどころ満載かもしれません。でもね、ウッディ・アレンの手にかかると、ジャズの軽快な
リズムにのせて話があれよあれよと展開していくのです。コロナ禍という現実を忘れ、楽しく映画に没頭することができました。
97 分の上映時間は、映画として短い方なのに、実際の時間よりも長く感じました。

昔のアレン作品に回帰したみたいと、おじさんは好意的にとらえます。でも、アメリカの観客の中には古臭いと思う方もいるようです。
そりゃあ、ウッディ・アレンは 80 歳をとっくに超えてますから、しょうがないでしょう。それよりも、80 歳をすぎても、20 代の恋を
描けることの方がすごいと思いませんか。

次の作品も公開を待つばかりだそうです。楽しみだなあ。

8 月 16 日 8 月初旬の松山
前回訪れた 6 月下旬というと、愛媛県でコロナ感染者がしばらく確認されていなかった時期。大街道、銀天街の歩行者の半数ほどしか
マスクをしていませんでした。

今回の 8 月初旬はというと、愛媛県でも徐々に感染者数が増えてきた時期です。大街道、銀天街の歩行者は当然のこと、それ
以外の場所でもマスク着用率 90 % です。昼食に入ったお店では、注文をとりにきた際、手にアルコールを噴射され、臨戦態勢
であることを実感しました。

道後温泉や松山城がある観光地であることに加え、帰省シーズンですからしかたありません。

また、ウーバー・イーツの配達員も 2 人見かけました。おお、さすが松山は都会だぜ、なんて言ってる場合じゃありません。
コロナのせいで失業した方じゃないといいのですが…。

6 月 30 日 久しぶりの映画

6/19 に全国的に緊急事態宣言が解除されたのを受け、松山に映画を見に行ってきました。松山に行くのも映画を見るのも 4 か月
ぶりです。



松山の繁華街「大街道」も人出でにぎわっています。マスクをつけてない人もいますね。



見に行ったのは「星屑の町」。映画館の時刻表を見ていて知った映画です。売れないムード歌謡コーラスグループ、「山田修と
ハローナイツ」がどさまわり先で歌手志望の女性と知り合うところから話が始まります。のんちゃんが出ているのに魅かれて見に
行ったところ、コーラスグループが主人公であったことに後から気づきました。



それもそのはず、この映画、1994 年から 7 作も上演されてきた舞台「星屑の町」シリーズを映画化したものでした。「山田修と
ハローナイツ」の配役も舞台と同じ。メンバー間の息がぴったりあってるはずです。つまり、のんちゃんをメインにした映画ではなく、
「星屑の町」の映画化に際し、のんちゃんをヒロインに選んだという図式でした。

舞台が東北という設定なので、のんちゃんが東北弁をしゃべりますし、ロケ地も北東北のようでして、ちょっとしたあまちゃん
懐古ムービーの雰囲気もあります。岩手県久慈市も協力してますしね。

上映時間が 1 時間 40 分と短かく、のんちゃんにおんぶにだっこの映画だったらイヤだなあと思っていたら、それは杞憂でした。
ながい導入部が終わり、さてこれからどうなる?となって以降は、時間が短いとは感じさせませんでした。おじさんにとってのんちゃんは
まぶしい存在ですが、さえない「山田修とハローナイツ」の方が年齢的に自分と近いというのもあります。

映画自体は面白かったものの、公開時期が悪かったという印象はぬぐえません。劇場公開されたのは 3 月 6 日。その前週の
2 月 27 日に首相が全国の小中高校に対して休校を要請しています。つまり、全国の親たちが育児と仕事のかねあいをどうするか
てんやわんやになっている最中に公開されているからです。

もっとも、松山では 6 月に入ってから公開されていることからわかるように、上映時期は地域によって分かれているようです。
予定どおり、3 月に公開され、終わってしまったところもあるでしょうし、松山のように緊急事態のレベル緩和に伴い、
上映したところもあるでしょう。

それにしてもねえ。こんな時期に公開したらスター・ウォーズだってお客さんが入らないでしょう。ちなみに、私が行った土曜日の
15:10 からの回のお客さんは私一人だけでした。

緊急事態宣言が解除されてから間がないせいもあるでしょうけど、映画産業、大丈夫か?と不安になりました。こんな状況が半年も
続いたら、大手映画館であっても不安です。

コロナ禍の前には映画館というものがあって、人々はそこに集って映画を見たものだ、なんてことにならなけりゃいいんですけど…。

6 月 7 日 今年のホタル
毎年この時期になると、決まった場所に片道 1.5 時間かけてホタルを見に行ってます。最初の印象があまりにも強烈だったので
それを見たさに通っているものの、同じものを見ることはできていません。

高 3 の子どもは、来年進学して家を出る予定なので、一緒に見るのは今年が最後。「今年こそ」と期待して行ったものの、結果は
今イチ。相変わらず野ウサギやら鹿やらは見られたのに、肝心のホタルはわずか。ウーン、残念。

「来週、また来ればいいじゃん」というオヤジに対し、カミさんと子どもから「(受験生なんだから)再々、来れないよ」と総ツッコミ。
そうでした、そうでした。高 3 であるのに加え、コロナ禍のせいで授業も遅れ気味なのでした。

だが、しかーし。今年はウチの前の小川で過去にないほどホタルが発生しています。試しに撮ったのがこちら。



写真ではよく見えませんが、奥の方にある橋の近くにはもう少しいます。ホントはそこを撮りたかったんですけどね。民家に向かって
カメラを向ける勇気はありません。



今年は家の近くでホタルが見られたからよしとしましょう。

6 月 7 日 虚構の劇団
5 年続けて見に行ってる「虚構の劇団」。もともとは、劇団を主宰している鴻上尚史が好きで見に行ったのでした。それまで、本やテレビ
でしか知らなかった鴻上さんが、上演のたびに必ず劇場にいることや、手書きの「ご挨拶」を書いていることなどを知るにつけ、
鴻上さんがさらに好きになりました。

また、回を重ねるごとに俳優さんの顔と名前が一致するようになり、成長を見るのも楽しみになりました。

今年も 6 月に新居浜で「日本人のへそ」を上演する予定でした。残念ながら、コロナ禍のせいで中止に。

中止になったことはやむを得ないとして、もう一つ残念なのは、二度と見ることができない可能性が高いことです。なぜかっていうと、
緊急事態宣言が発令される前から、今回の公演をもって活動休止が発表されていたから。

コロナ騒ぎが収束しても劇団が休止したら上演できません。その後、劇団からは、公演の中止と活動休止の関係について発表されて
いません。

ファンの気持ちとしては、活動休止になる前にせめて 1 つでも公演を見たいと思うのが人情。でも、いつできるかどうか分からない
状態のまま、劇団員を縛り付けておくのが難しいことは素人のオヤジにもわかります。新たな進路を決めている方もいるでしょうし。

今後どうなるか皆目見当がつきません。「日本人のへそ」を見られる日や、「虚構の劇団」が活動を再開する日がやってくるのを
待つばかりです。

5 月 7 日 登山も自粛

・八ヶ岳で遭難した登山者にコロナ陽性の疑いがあったため、救助隊員が 10 日間経過観察に
・入山禁止の男体山にひとりで登って迷ったあげく、救助要請

これ、ゴールデンウィーク中の登山を自粛するよう、山岳団体から発表があった後に報道された事例です。こういうのを聞くと、今
は登山をしないのが正解。

じつは、私も山岳団体の発表があるまでは、子どもといっしょに石鎚山にのぼるか、単独で瓶ヶ森山にのぼることを狙っていました。
ゴールデンウィーク前後といえば山登りの季節。毎年、この時期をねらってのぼっています。



ちなみに、石鎚山はウチの子の宿題です。愛媛では子どもの間に石鎚山にのぼらせます。松山あたりでは園児にのぼらせる幼稚園も
あります。ウチの子も中学校の移動教室で石鎚登山をめざしたものの、悪天のためのぼれずじまいでした。リベンジさせることを
検討していたまま、クラブ活動やら何やらで機会がありませんでした。

瓶ヶ森山は私の宿題です。愛媛に引っ越していらい、石鎚山系をほそぼそとのぼってきた結果、残すところ瓶ヶ森山と二ノ森山の
2 つになりました。瓶ヶ森山は歩行時間がながく、標高差もおおきいため、いまの私にとってはチャレンジングな山です。少しでも、
足の力を温存するためにトレッキング・ポールも購入してました。

でも、ゴールデンウィーク中の登山はあきらめます。

だが、しかーし、山岳団体が「山は逃げないので今は我慢」と言っているのに対し、おじさんの体力は年々逃げつつあります。
登山が解禁になったとしても、瓶ヶ森に登る体力はまだ残っているでしょうか。

4 月 29 日 「のろ」閉店
吉祥寺の「のろ」が、また閉店するそうです。「のろ」は 1976 年に開店したライブハウスです。ライブハウスとはいうものの、ライブが
行われるのはごくたまにで、普段は居酒屋でした。そういえば、店のメニューには Life House と記載されてましたっけ。音楽や演劇を
してそうな人が集まっており、その手のチラシが地下に降りる階段に沢山貼ってありました。



初めて行ったのは 1982 年かな。アングラという言葉そのものの雰囲気に魅かれました。ポニーテールが似合うマスターの加藤さん
から名前を覚えてもらうと、認められた気になり嬉しかったですね。吉祥寺で友人と会ったり、後輩を連れて行ったりするときは必ず
「のろ」でした。

井の頭公園が近く、大学の友人や後輩で、地方から上京した人を連れていくと、「ドラマで見た場所だ!」と感激して喜ぶのでした。

入り口から入ってすぐ左の、少し高い位置にあるテーブルからは店内を見渡せました。そこから、一癖も二癖もありそうな、年上の
お客さんが話しているのを見ていると、自分もいっぱしの大人になったような気がしたものです。いつかは「のろ」にボトルを
入れたいと考え、実際、ボトルを入れたら、オレも大人になったと本気で思いました。

現実には、酒に弱い体質が災いして常連にはほど遠く、マスターからすれば影の薄い存在だったでしょう。覚えてすらいないかも。

「のろ」には、来日したブルースブラザーズがお忍びで来て、ライブをしたという伝説がありました。マスターは自慢するでもなく、
尋ねたら「ホントだよ」と一言。最近、当時の写真をネットで見たら、ギターを弾いていたのは鮎川誠

ブルースブラザーズには出会えませんでしたけど、高田渡はよく見ました。高田渡が酔っ払って客の女性にからむのを、
マスターが諫めてお客に謝っていたこともあります。後から吟遊詩人だのなんだのと脚光を浴びた高田渡も、当時は単なる酔っ払い
でした。高田渡はお金をちゃんと払ってたのかなあ。

結婚してからも、カミさんと何度か行きました。2000 年 4 月の坂庭省悟と城田じゅんじのライブは、好きな店で好きな音楽を聞くことが
できました。これを天国と言わずして、なんと言うのでしょう。



2003 年 6 月には、坂庭省悟と城田じゅんじのライブに、生まれてまもない子供をつれて見に行きました。その後は会社帰りに一人で
寄ったことがあるかどうか。

そうこうするうちに、2009 年 9 月に「のろ」は閉店していました。閉店は後から知りました。近鉄裏のスナック街に場所を変え、再度、
開店したものの、2020 年 4 月に閉店するそうです。

これぞ吉祥寺!という店でした。最初の「のろ」から 44 年。加藤さん、長いあいだお疲れ様でした。

(2021 年 11 月 10 日追記)
加藤さんが 2021 年 9 月に病気でお亡くなりになったことを知りました。享年 72 歳。ご冥福をお祈りいたします。

4 月 29 日 コロナ禍で迎える 4 月
東京、大阪などの都市部はともかく、愛媛県まで非常事態宣言の対象になるとは思ってませんでした。おかげで、4 月 7 日から
登校していた子供も 4 月 20 日からまた休校です。

本来、高校 3 年といえば、春の大会をさかいにクラブ活動を引退し、あとは受験にまっしぐらというのが通常でした。でも、今年は
大会もないまま、クラブ活動を引退し、なし崩しに受験生になりそうな気配が濃厚。めりはりがありません。

都会の学校や私立高校ではオンライン授業をするところがあるっていうじゃないですか。地方の県立高校じゃ紙ベースの宿題こそ
大量に出されたものの、するかしないかは個人任せ。一部の高校生はオンライン授業で本来の単元が進められ、かたや朝遅くまで
寝呆けている高校生(ウチの子です)は本来の単元が進まない。これじゃ教育格差は広まるばかりです。

人の世は新型コロナ・ウィルスに振り回されていますけど、植物には関係ありません。4 月上旬には桜が満開となり、20 日頃には
タケノコが出てきました。冬の初めが暖冬だったことから、桜もタケノコも例年より早いかなと予想していたら、桜は例年よりも遅く
なりました。4 月に入ってから気温が上がりませんでしたからね。そういやあ、ツバメも目にしません。

そんなわけで、人気のない公園に花見に行ったり、裏山でタケノコを掘ったりしてました。地方暮らしならではのメリットです。



タケノコ掘りの日の夕食は、実家からいただいたタラの芽、自分で掘ったタケノコ、タケノコご飯、いただきものの安納いものてんぷらに、
地元産あじのフライです。地産地消のお手本のようで、満足度高し。



テレビや SNS では暗いニュースばかり。たまには情報を遮断して、積極的に自然に触れることにしましょう。

でも、そうやって春の山に入って、マダニに噛まれたんだよなあ(過去に 2 回も!)。

3 月 22 日 しまなみサイクリング
ご存じのとおり、コロナ禍が原因で学校は全国的に休みになっています。ウチの高校生も、授業はもとよりクラブ活動も休みとなり、
体力を持て余し気味。

折角の休みなんだから、日頃できない体験をということで、しまなみサイクリングに行ってきました。サイクリングだったら密閉空間では
ありませんし、濃厚接触のおそれもありません。自転車を漕いだのは、体力を持てあましている息子とその友人 2 名。
おやじは車で伴走です。

普段でしたら、この時期のしまなみ海道は人出が多く、行くのを躊躇します。でも、コロナ騒ぎで外国人観光客が減っていると考え、
自転車予約の電話をかけてみました。そうしたら、甘い甘い。自転車は予約枠が既に埋まっており、当日の先着枠しかないとのこと。

当日、愛媛県今治側の出発地点、衣山ターミナルに朝 8 時半頃に着いたら、既に駐車場は満車です。それでも何とか、ギア付きの
サイクリング車を 3 台借りられました。外国人観光客はさすがに少ないものの、日本人利用客が沢山います。



9 時すぎに今治を出発。



最初はカッパなどを背中にしょって走っていたのですが、晴れてくるにしたがって服を脱いだり、脱いだ服や
カッパを伴走車に預けたりしてどんどん軽装になっていきます。



広島県尾道まで 70 キロも走れるかなあなんて言ってた子たちも調子よさそう。そりゃそうです。高校生なんて人生の中で最も
体力があるからです。私も高校生の頃、親と一緒に山登りに行ったところ、山道を登っている大人が遅いので驚いたことがあります。
毎日、クラブで走ってるんですから、普通の大人に比べたら早いのは当たり前。

しまなみ海道は、今治から大島→伯方島→大三島→生口島→因島→向島を経て尾道につながっています。午前中はコース上で
待ち構えて、何度か様子を見てましたけど、生口島で昼食をとると連絡があったあたりから見失ってしまいました。



自転車は島の中で一般道を走りますが、橋に上がるところと橋から下りるところは専用道を走ります。最短コースを走る自転車と違い、
伴走車は高速道路を使って島から島に移動し、インターチェンジから下りなければならないため、自転車についていくのは案外大変です。
おまけに、因島あたりは本州に近いため、道も混んできました。なので、一足先に尾道で待つことに。

15 時すぎ、無事に尾道に到着しました。3 人とも達成感のあるいい顔をしてましたね。自分の力で四国から本州まで渡り切ったん
ですから忘れられない思い出になるでしょう。

後は帰るだけです。

えーっ、尾道を観光したいって! おじさんはもう帰りたいよ(涙)。高校生の体力おそるべし。

3 月 31 日 コロナ・ウィルス
早いもので、3 月も 31 日であります。本当でしたら「フィッシャーマンズ・ソング」という映画を見に松山に行きたかったのですが、
コロナ・ウィルスのせいでかみさんに止められて行けませんでした。

コロナ・ウィルス、2 月の時点ではこれほどのことになるとは予想してませんでした。愛媛では今のところ感染者が 4 名で踏みと
どまっています。このまま増えないといいんですけどね(と、書いている時点で、松山で感染者増加のニュース)。

八幡浜にいると、トイレットペーパーやマスクがなくなったのと、学校が休みになったくらいで、それ以外ではあまり影響を感じません。
そもそも、人が沢山集まる場所もなければ、満員の通勤電車もないからです。

子どもの通う県立高校は 3 月 4 日から休校。クラブ活動もないため、子どもは突然の休みに戸惑い気味。そりゃそうです。中学、
高校と、土日のどちらかはクラブ、春休みや夏休みもクラブか補講で登校していたので、これほど学校に行かないのは初めて
だからです。おまけに、高校生唯一の息抜き、カラオケは親から止められています。

勉強しろとは言わないけど、日頃できなかった読書や、体験をしたらいいんじゃないのかなあ

2 月 14 日 お便り
こんなつたないホームページでも、長年やってると見ず知らずの方からお便りをいただくことがあります。最近もバイク関連のページを
見たといって、千葉の方からメールをいただきました。

誰かが読んでくれることを期待せず、好きなことをボソボソつぶやいているだけではありますが、ものすごく狭い範囲の同好の士から
反応があると励みになります。今回メールをくださった方のキーワードは、「モトテクニカ」という東京都八王子市にあった大型自動二輪
練習所です。

今後もどなたかの関心をひくことを期待しつつ、くだらないことを細々と書いてゆきます。

2 月 14 日 ハンバートハンバート
今年もハンバートハンバートのライブが 4 月にあります。だが、しかーし、四国のライブは香川、高知の 2 県のみ。愛媛にはこないの
でした、残念。通常、高知くらいなら家族をつれて遠征するところですが、今年は息子が高校 3 年生。さすがに音楽を聞くためだけに
親が受験生を連れまわすのはどうかと思い、我慢するつもりです。

ハンバートハンバートはこれからも聞けるでしょうけど、息子の高校 3 年というのは一生に一度ですから。

2 月 14 日 歩く人
八幡浜から大洲市長浜に向かう海沿いの国道378号線沿いには桜が咲いています。いつも 2 月に咲くのですが、今年は暖冬のせいか
2/8 時点で満開をすぎて、少し花びらが散っていました。ちょっと早すぎでしょ。



桜を見ていたところ、大きなザックを背負って歩いている若者がいました。

場所は長浜と八幡浜のちょうど中間地点くらい。八幡浜までは、厳しい上り下りがまだ 15km くらい続きます。その間、集落がいくつかある
ものの、泊まるところはおろかコンビニ、商店もありません。時刻は 16 時過ぎ。自分がその立場だったら、いたくない場所と時間帯です。

そんなわけで、八幡浜まで乗っていくか尋ねることにしました。お遍路さんみたいに自分の足で歩くことを課している方もいるので、
無理強いはしません。

あれ、乗るの? 乗ってく。あっ、そう。

聞けば、東京在住、27歳男性で映像関係の学校を卒業し、放送業界で働いていたそう。熊本まで歩いて行き、そこであることをするという
テーマを設定し、その道中を撮影しているといいます。手には業務用ハンディカム。

話を聞くと、27 歳にとっては大事なことなんでしょうけど、57 歳のおじさんにとってはあまり共感できないテーマでした。でもね、おじさんに
理解できないテーマのために歩いているというところが若者の若者たるゆえんでしょう。

私なんか、20 代にバイクで日本を回ってる頃のテーマは、日本の各地を自分の目で見たいということだけでしたから。それなのに、結構、
親切にされましたよ。ご飯をごちそうになったこともありますし、沖縄では見ず知らずの方に泊めていただいたこともあります。

結局、みんな若い旅人がすきなんですよね。57 歳のおじさんが歩いて旅していたら、どんな重い話を聞かされるかわかったもんじゃ
ありません。失業、離婚、病気、いくらでもありそうです。でも、27 歳の若者の話でしたら、ああ、そうなんだあ、頑張ってね、
ですんじゃいますから。

彼は、この旅で撮った映像をまとめて、劇場で公開できるような作品にしたいと言ってました。劇場公開できるような映画を作るというのは、
簡単なことじゃなさそうですけど、夢が実現するといいですね。

でも、その際はおじさんが話した内容はカットしてね。車内で、こっそりカメラ回してたの知ってるよ。

2 月 14 日 映画(カツベン
また映画かよって? はい、この一か月間で 3 本目の映画です。

「カツベン」面白かったなあ。周防正行監督作品は、「シコふんじゃった」、「ファンシーダンス」、「シャルウィダンス」も見てますけど、今回
のが一番面白く、スケールも大きいように感じました。

何がよかったかというと、主演の成田凌。

カミさんや子どもに聞くと、テレビドラマにそこそこ出ているというものの、私が見たのは初めて。この成田君がベテラン俳優に負けずに
主役をはっている様は、見習い弁士がベテラン弁士を抑えて活躍する劇中劇と重なります。また、成田君の弁士としての語りもよかった
ですね。独特の節回しでの語りは、もっと聞いていたいと思わせるものでした。

この映画で初めて知りましたけど、活動弁士という職業は日本独特のものだそうです。海外では、無声トーキーに簡単な説明をつけた
ことはあったようですが、日本みたいに弁士がストーリーをかたるということはなかったとのこと。考えたら、日本には落語、講談、浪曲
など語り芸があります。ですから、無声映画に弁士がつくというのは自然なことだったんでしょう。

今は亡き、国本武春さんの浪曲を聞きにいった際には、声色一つで観客の心を自在にあやつる浪曲師の技に圧倒されました。似たような
経験を積んだ方たちが弁士をしたのでしょうから、楽しくないはずありません。映画の中のこととはいえ、映画を見ているお客さんから
「たっぷり」という声がかかっていたのは納得できました。「たっぷり」というのはお客さんが浪曲師にかける掛け声です(国本武春さん
および浪曲の掛け声についてはこちら)。

周防さんによると、当時の映画館は雑多な音であふれていたそうです。弁士の声、楽士の奏でる音曲、お客さんの掛け声など。
お客さんが静かに黙ってみるようになったのは、映画に音が付いた以降じゃないかと言ってました。そうかもしれませんね。私の小さい
ころには映画館で静かにするものだと教えこまれてきたような気がします。

もう一つ、周防さんがインタビューで語っていたのは、映画は一人で見るものではなく、皆で見るもの、それを思い出させたいということ
です。最近は配信やダウンロードなど映画を一人で見ることもあるようですが、それは違うんですよと。

そりゃあ、DVD を借りてきたり、ダウンロードで見た方が安いでしょうし、時間も自由でしょう。上映の期間や時刻を確認し、わざわざ劇場
まで行くのは手間がかかります。私みたいに地方都市に住んでいたらなおさらです。でもね、劇場で他のお客さんと一緒に、笑ったり、
息をのんだりしてこその映画じゃないかなあ。

今回、見たのは通常の劇場ではなく、パフィオ宇和島という宇和島市の多目的ホールでした。客層も映画館とは異なっており、年齢層が
いくぶん高め。

普段、映画館で見るときは、上映中に話したり飲食したりしている人がいると気になる性格ですが、今回はまったく気になりませんでした。
むしろ、近くでおばちゃんが「あらあら! 捕まっちゃったわ」、「まあ、大変!」とあげる声が、スクリーンの中で映画を見ている観客に
なったかのようで、臨場感がありました。

今回、「カツベン」は愛媛国際映画祭の一環として、宇和島と内子町で上映してました。内子町の上映場所は内子座です。内子座で
見たかったなあ。だって、劇中の劇場と同じような桟敷があるんですよ。そんな小屋で「カツベン」見たら、できすぎでしょう。



「カツベン」、お勧めです。見るなら、映画館で。

1 月 22 日 映画(フォードvsフェラーリ

「フォードvsフェラーリ」、楽しかったですね。時代設定は私が生まれた 1960 年代なので懐かしかった。なぜかって言うと、子供の頃、
兄が買っていたオートスポーツやカー・グラフィックで覚えた、ダン・ガーニー、リッチー・ギンサー、ブルース・マクラーレンなどの名前が
でてきたからです。

日本のレーサーでいうと、滝進太郎、生沢徹、黒沢元治、北野元、高橋国光、なんてのが琴線に触れます。リアウィングの付いた
ニッサン R381 が好きでした。この R381、ニッサンなのに、シボレーの 5.5L エンジンを積んでたんですから、速いはずです。今にして
思うとひどい話。

フォードとフェラーリの確執についてはよく知りませんでした。今回の映画でフォードが GT40 を開発してルマンでフェラーリに戦いを
挑んだ経緯であるとか、キャロル・シェルビー、ケン・マイルズについてよく分かりました。ルマンで戦ったフォード GT40、
フェラーリ 412P というと、こんな車です。以前、クラシック・カーのイベントで撮影したもの。おそらくレプリカでしょう。



今回の映画、上映時間が 150 分もあります。いまどき珍しい。でもね、ルマンに挑むことになったフォードの事情、シェルビーとマイルズの
友情、レースカーの開発状況、そして実際のレース・シーンなどを丁寧に伝えようとするとそれなりに時間がかかります。120 分に
しちゃったら、詰め込みすぎになるか、エピソードをいくつかカットせざるを得ず、つまらなくなったでしょう。時間を贅沢に使ったおかげで、
できのよい作品に仕上がっており、自動車やレースに興味がない人でも楽しめる内容になってます。

レース映画というと、ニキ・ラウダとジェームス・ハントの勝負を描いた「ラッシュ」があります。こちらも葉巻型の F1 が走る姿を大画面で
楽しむことができました。でも、映画としてのできは今回の映画に軍配があがります。

今回の映画、楽しかったのは車の走行シーンです。なんたってフォード GT40 のエンジン音を堪能できるんですから。アタクシ、精密な
ドイツ車が好きですけど、アメ車の大排気量 OHV エンジンが、野太い低音を響かせながら回る音も大好きです。厳密にいうと映画で
使われている GT40 は本物じゃない可能性の方が高いけど。

今回、何よりも驚いたのはケン・マイルズを演じたクリチャン・ベイル。映画が終わる寸前に、この俳優さん、「荒野の誓い」の大尉を演じた
人だ!と気づきました。

「荒野の誓い」では口ひげをはやし、寡黙ながらタフそうな騎兵隊大尉を演じていました。今回は、頬が少しこけた顔つきや話し方、
声色から、同一人物だとは全くきづきませんでした。いやいや、俳優さんってのは恐ろしいね。まったく別人格になっちゃうんですから。

こうやって、書きたいことが湧いてくるってことはいい映画の証拠です。

1 月 22 日 映画(男はつらいよ お帰り寅さん
もう、なんていうか昭和のオヤジにはひたすら懐かしかったですね。子供の頃からテレビでさんざん見てました。その影響でしょう、
浪人生の頃、予備校が終わってから友人と柴又の帝釈天に行ったこともあります。

映画館で見た映画の題名を私が記録しだしたのは社会人になって以降の 1989 年から。その一覧には寅さん映画が載っていないので、
大学生の頃に劇場で見たのが最後でしょう。ストーリーは決まりきっていますし、当然ながら渥美清も歳をとっていきます。なので、
劇場で見たいとは思わなかったのが正直なところ。最後はどのような結末になったのか知りませんでした。

今回の 50 作目でも、寅さんがいなくなったことはわかるものの、亡くなったのか、それとも音信不通になってしまったのかは言及されて
いません。

映画を見た当日、子供は「スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け」を見てました。42 年をかけて完結するスター・ウォーズも壮大な
話ですけど、50 年目に第 50 作を作成した山田陽次監督もなかなかなものです。

劇中で挿入される、過去の寅さんシリーズのワンカット、歴代のマドンナ達、今ではおばあちゃんになった「さくら」、どれをとっても 50 年の
歴史を感じさせます。

寅さんの甥っ子である満男を主人公に据え、回想シーンに渥美清のカットをふんだんに使った今回の映画、ありかなしかといったら
ありですね。このアイデアを思いついたのは自分だと横尾忠則が主張しているのはおいといて、突飛な印象は受けませんでした。

だって、身近な人が亡くなっても、自分の脳の中ではいつまでもその人が生きていて、語りかけることってあるじゃないですか。それと
同じです。主人公の満男も、おじさんだったらどうするだろうと考える。そうすると、若いころの寅さんがあのリズムのよい口調で理屈にも
ならない理屈を述べたてる、きわめて自然でした。

私にも、寅さんとはタイプは違うものの、似たような存在の方がいました。大学生の頃、クラブの皆がアルバイトでお世話になった植木屋の
親方です。アルバイトだけではなく、お酒の飲み方、人との付き合い方など多くのことを教えていただきました。この親方、面倒見のよい
いい方なのですが、直言居士の上に短気で、一緒にいるとハラハラすることが多々ありました。

残念ながら、私が 39 歳のときに親方は 55 歳で亡くなってしまいました。でも、今でも何かあると、親方だったらなんていうだろうなあとか、
70 歳になった親方はどんなだったろうと思うことがあります。

山田洋次によると、生きづらいこの現代にこそ、寅さんのような人が生きる余地が必要だといいます。私も親方に会いたくなりました。

1 月 22 日 映画(荒野の誓い
映画のオープニング、インディアンの襲撃シーンが想像以上にグロテスクで、思わず帰ろうかと思いました。その後も人が死ぬこと死ぬこと。

そもそも 1892 年という舞台設定からいやーな感じがしました。かつての西部劇は、インディアンvs騎兵隊、悪い牧場主vs保安官という
ワンパターンの勧善懲悪でしたが、アメリカン・ニューシネマ以降、リアリティを追求したり、古きよき西部の終わりをテーマにしたりと、
見てすっきりする西部劇が少なくなりました。

「ラスト・シューティスト」では老ガンマンを年老いたジョン・ウエィンが演じ、もの哀しい映画でした。「ワイルド・バンチ」ではすさまじい
暴力性でおびただしい数の人が死んだものの、やくざ映画に通じるかっこよさを感じました。「ダンス・ウィズ・ウルブズ」では騎兵隊隊員と
インディアンとの交流を描いてました。こうしたことからわかるように、かつての西部劇とは視点が変わっています。

「荒野の誓い」もそんな映画です。原題の Hostile とは「白人に非友好的な先住民」のこと。

映画はまず、家の前で作業している男性が平原のかなたからこちらに向かってくる一群をみとめることから始まります。「大草原の
小さな家」をほうふつとさせる一家を、馬に乗ったインディアンが襲撃し、夫婦と 3 人の子どものうち、母親だけが生き残ります。

次のシーンでは、騎兵隊員がインディアンの男性を捉えようと馬で取り囲み、その脇でインディアンの母子が泣き叫んでいます。
それを指揮している陸軍大尉が主人公です。

この時点で、インディアンを悪者にした勧善懲悪の西部劇でないことが提示されます。

捉えたインディアンを収容所に連れ帰った大尉には、拘留中の酋長をはるかモンタナまで護送していって解放するという皮肉な任務が
与えられます。東部にある合衆国政府内では先住民に対する考え方が変わってきており、ガンで余命いくばくもない酋長を人道的見地
から生まれ故郷に返すことにしたのです。

かつて、酋長と戦い、自分の部下を多数殺されている大尉は任務について煩悶するも、最終的には引き受けます。そして、数人の部下と
インディアンの酋長家族を引きつれ、ニュー・メキシコからモンタナまでの長旅にでるのです。

旅を始めた一行が最初に通ったのが、冒頭の襲撃された民家です。ここで、一行は、亡骸を抱いたまま家に残っていた女性と遭遇します。
精神のバランスを崩しかけている女性は、一行の中にインディアンの姿をみとめてパニックになります。しかし、大尉は女性を一行に加え、
保護することにします。

ね、ここまで聞いただけでこの先、どうなっちゃうんだろうという展開でしょ。

以降、違う種族の襲撃を受けたり、インディアンを殺した罪の騎兵隊員の護送という任務が加わったり、毛皮採取の民間人によって
女性達がさらわれたり、さまざまな事件に出会いながらも、最終的に冒頭の女性を含む一向は最終地のモンタナまでたどり着きます。

モンタナへの道中、大尉の心情は徐々に変化し、着いた頃には酋長と和解します。そして、酋長は亡くなります。

大尉たちがインディアンの作法に則って酋長を埋葬していると、草原のかなたから馬に乗った白人 4 名がやってくるのが見えます。
地元の牧場主です。牧場主は大尉にこう言い放ちます。「インディアンを俺の土地に埋めただろ。気に食わねえな。野蛮人をどかして
さっさと俺の土地から失せろ!」と。

ここで、銃撃戦となり、大尉と、家族を亡くした女性、インディアンの男の子を除いて、死んでしまいます。敵も牧場主以外は死んでしまい、
傷を負った牧場主を大尉は追って、インディアンさながらの方法で殺します。

白人政府のためにインディアンを掃討してきた騎兵隊大尉が、道理のとおらない白人牧場主に対してインディアンの誇りをかけて復讐
するんですから、冒頭の印象とは 180 度異なる展開です。

この映画、どのように終わるんだろう。そう思ってみていたら、映画らしい救いのもてる終わり方でした。時間にして 10 秒にも満たない
ラストシーンにやられました。

帰ってからも、この映画について考えていたところ、この映画のテーマとして一番腑におちたのは「再生」でした。