日々雑感(2021)      日々雑感トップ      日々雑感(2023)


日々雑感(2022)


12 月 30 日 映画二題
12 月は天候不順だったため、外遊びができず、映画を見てました。

一本目は「ミセス・ハリス、パリへ行く」。ロンドンで暮らしている家政婦が、ひょんなことからディオールのドレスに憧れて、
パリに買いに行くというお話。見る前は、何でいまこの映画なんだろうと思いました。見た後は、腑に落ちました。

テレビをつければ、毎日のように攻撃を受けたウクライナの街中が写るこの時代、映画館に行ってまでドンパチものを
見ようとは思いません。いっときでも現実を忘れて心休まるような映画を見たいじゃありませんか。そんなときにうってつけの
映画だったからです。とはいえ、ロシアが侵攻を始める前から映画製作は始まっていたでしょうから、本当はどのような
事情からこの映画ができたのかは分かりません。

ストーリー展開に既視感があったので、記憶を掘り起こしたところ、小学生のときに似たような話を読んだことをおもい
だしました。調べると、ビンゴ!。まさにその本が原作でした。「ハリスおばさんパリへ行く」(ポール・ギャリコ)がそれです。

さっそく、図書館で借りて読みましたよ。文体が古くさいことを除いて、ストーリーは原作の方が面白いかも。どんどん
引き込まれて、気分はもう小学生です。当時はルパンものやホームズものを読み漁っていた頃なので、おそらく母親に
買い与えられて読んだのでしょう。今は亡き母がこのことを知ったら喜ぶかな。

二本目は新海誠監督のアニメ「すずめの戸締まり」です。この映画、ロードムービーになってまして、なんと八幡浜を
主人公が通過します。その際に映るのが、八幡浜港のフェリー・ターミナル。



でもね、フェリー・ターミナルは 4 月頃の「日々雑感」でもふれたとおり、新しいターミナルに移行してしまいました。
映画に登場するターミナルは、取り壊される前の建物で、もうありません。
最悪のタイミング。これじゃ、アニメ・ファンが聖地巡りと称して八幡浜に来てくれても、肝心な聖地がなくなってしまっている
わけですから。ああ、残念。

「すずめの戸締まり」、まだ公開中のため、内容に触れるのはやめておきます。しかし、新海誠監督の意志に敬意だけは
表したいと思います。映画会社や沢山のスポンサーからヒットが期待される娯楽大作にもかかわらず、あのように重い
テーマを正面から扱っているからです。

12 月 5 日 新聞比較
サッカー・ワールドカップ凄いことになりましたね。まさか生きているうちに、ワールドカップでドイツ、スペインに続けて勝利
するなんて夢にも思いませんでした。

こういうとき、テレビやネットは東京発の情報が中心です。けれども、新聞には地方性があらわれて面白いので、愛媛新聞の
紙面を紹介します。

ドイツ戦翌日の愛媛新聞





長友、鎌田は愛媛出身のため、愛媛出身者中心のタイトル。鎌田は中学校以降は大阪で育ったらしいんだけどね。

スペイン戦翌日の愛媛新聞



得点した堂安、田中が中心の的確な紙面。



と思いきや、やっぱり長友の「ブラボー」に加え、「2県人現地で声援」の見出し。郷土愛の強い(偏向した)紙面は健在です。


12 月 5 日 ゴルフの状況
ウチのゴルフ4、2004年式ですから、もう 18 年前のクルマになります。愛媛じゃまず見かけなくなりました。走行距離は 98,000km。
1600cc という排気量の割によく走りますし、燃費も比較的よいので気に入ってます。あまり故障しませんけど、さすがにここ
2 年くらいはドアが開かなくなったり、天井が垂れてきたりと、走るのとは関係ない部分が壊れだしました。



とはいえ、家族からは人気があります。クーラーが効くとか、音楽が聞けるという、他人からみたら当たり前な理由に加え、
やっぱり家族で各地に行った記憶とリンクしているのが大きいでしょう。このクルマが来たときはまだ小学生だった息子も、
免許をとってついにこのクルマを運転するようになりました。父ちゃんとしては感慨ひとしおです。

子どもが大学に行っている間は、学費やら仕送りやら経済的負担が大きいため、卒業するまではゴルフにがんばってもらう
必要があります。それに世間じゃ、半導体不足で新車はおろか、中古車も不足してるっていうじゃないですか。

11 月の車検の際は、10 万キロという節目の距離であることと、あと 3 〜 6 年は乗れるようにしたいことから、エンジン回りを
中心に部品を交換してもらいました。



具体的にいうと、タイミング・ベルト、テンショナー、ウォーター・ポンプ、ウォーター・パイプ・ホースセット、ファン・ベルト、
タペットカバー・ガスケット、オイルレベル・ゲージ・パイプ、ブローバイ・ホース、スロットルボディー・ガスケット、
インマニ・ガスケット、イグニッション・コイル、プラグ・キャップ、プラグ、フューエル・ホースなどです。
本当は、足回りも手をいれたいところですけど、見積もりを見て断念しました。

これであと数年、安心して乗れるといいなあ。

12 月 5 日 CBX の状況
次は CBX 250RS です。

昨年は故障がちで、数か月入院していたのに対し、今年は安定していました。ところが、寒くなってきたから、そろそろ
乗り収めかなあと思っていた矢先、またエンジンがかからなくなりました。セルは回れどエンジンかからずです。

ションボリして家に帰ると、事情を察したカミさん、ナゼか嬉しそうです。そうなんですよねえ。話はそれますけど、ウチじゃ私が
机の角にぶつかったり、痛い目に遭っていると、カミさんがナゼか嬉しそうなんです。バイクのエンジンがかからないなんて
大好物。ウチだけなのかよそのお宅でもそうなのか興味のあるところです。

話を戻してエンジンです。昨年の症状は、エンジンはかかるけど、すぐ止まるという症状。今回のは、まったく爆発する
気配がないタイプ。昨年は、老朽化した CDI、パルス・ジェネレーターを交換しました。でもいずれも中古部品のため、
いつ壊れてもおかしくありません。また長期戦かあと思いつつ、バイク屋さんに見てもらったところ、その日のうちに直りました。

原因はカーボン付着による圧縮もれ。どうやら、バルブ付近にカーボンが付着して閉まり切らず、圧縮が漏れたのでは
ないかとのこと。カーボンを溶かす液体を燃料タンクに入れて見たところ、圧縮が戻ったという説明でした。郵便カブなど、
発進・停止の多い原付バイクには多い症状だそうです。

エンジンの回し方が足りないのかなあ。ウチの CBX 250RS、デュアル・キャブが売り物でした。通常、単気筒のエンジンには
キャブが 1 つなのに、低速用と高速用の 2 つのキャブがついています。これが曲者で、以前、高速用のキャブに水が
たまったことがあり、そのときもバイク屋さんからもっとエンジンを回すように言われたものです。7、8 千まで回しているのにね。

でもね、デュアル・キャブを備えた同型のエンジンから、CBX 250RS、GB 250、XLX250 という 3 機種が派生し、そのうち、
シングル・キャブに仕様変更された GB 250 のみが生きながらえたことを考えると、やっぱりデュアル・キャブにはムリが
あるというのが実感です。このエンジンの先祖にあたる XL 250S のエンジンはシングル・キャブでしたけど、トラブルなんて
なかったですから。

何はともあれ、直ってよかったです。

11月 9 日 パンダに乗って

奥田英朗の「パンダに乗って」、良かったです。短編集「コロナと潜水服」の中に入ってました。パンダって動物じゃなくて、
フィアット・パンダという車のことね。

中年男性が中古のパンダを買ったところ、このクルマのカー・ナビが変な指示をすることに気がつきます。指示のままに
走っていると、前オーナーの生涯を追体験することになるというおはなし。

前にのっていたクルマは 32 歳〜 52 歳までの 20 年間乗ってました。その間に結婚、転職、子育て、両親の介護など、
さまざまな経験をしました。もし、あのクルマに上記のパンダのような能力が備わっていたら、現オーナーさんはどんなことを
追体験することになったんでしょうね。子育てあたりまではいいけど、両親の介護なんて、自分でも追体験したくないなあ。

それによく考えたら、ウチのクルマにはカー・ナビがついてなかったので、クルマは指示を出すことができないのでした。

11月 9 日 尻割山
瓶が森、登頂できなかったくせに 4 時間以上登り続けられたことから、ちょっと気が大きくなってしまってます。上りの
コース・タイムが 3.5 時間のため、今までは諦めていた西赤石山(別子銅山の近く)も、次に登りたい山の候補として挙げる
始末。調子にのってますねー。でも、あいにく週末の天気は快晴とまではいきません。イケイケ気分が抑えられて
ちょうどいいかも。

そんなわけで宇和島から尻割山に登ることに。ここ、5 月に登った高月山と同じ鬼ケ城山系に属しており、今回は
宇和島から登るということ。

この山、標高は 982m ながら、登り口の標高が低いことから体力的に結構厳しそうなことがガイドブックに記載されて
います。曰く、「市街地から歩いて1000 メートル以上の山に登ることのできる場所は全国でも数少ない」。



薄曇りの中、8:40 に登山開始。薄暗い針葉樹林帯を歩きます。猪が掘ったと思われる真新しい跡があちらこちらにあり、
気が休まりません。南予の山だなあ。

ガイドブックには千本松、八本松、四本松などのポイントが記載されていますけど、これはおそらく、十年単位、ひょっとしたら
百年単位で以前のはなし。今じゃあたり一面、針葉樹が伸びてしまい、標識がなければまったく目印になりません。



八本松をこえたあたりから、雨天時は水の通り道になっていると思われるえぐれた道を歩きます。足元が狭い上、
粘土質なので歩きにくいことこの上なし。

足元は荒れてますけど、今回も高知からきたという女性二人組と出会いましたので、そこそこ人気があるようです。
高月山でもそうでしたけど、宇和島は高知との県境に近いので、高知から来る方も多くいます。「〜するけん」という愛媛弁に
慣れた耳に、「〜するき」という高知弁は新鮮です。かっこいい〜。

結局、山頂近くまで見晴らしがきかず、樹林帯をひたすら歩くこと 3 時間、ようやく山頂に到着。



眼下に広がる宇和島市内を一望できます。山頂の景色はまずまず。雲がなければ九州まで見渡せたのになあ。

尻割山、山と言ってますけど実際は山系の肩にあるでっぱりのようなもの。山頂からはさらに上にいく道が伸びており、
10 分も登るとこんな景色が。





そう、尻割山のすぐ上をスーパー林道が走ってるんですね。この林道を先に進むと「鹿のコル」という登山口があり、
鬼ケ城山系を楽に登りたい方の入口になってます。

もうちょっと歳をとったらスーパー林道のお世話になるかもしれないけど、登れるうちは自力で登りたいね

この後、下りは行きと違う野川登山口に降りました。こちらも鬱蒼とした針葉樹林帯の中を歩き、登り以上に
トホホな感じでした。

10 月 8 日 ああ、瓶が森
瓶が森(1897m)は、愛媛の山を登り始めて早々に意識した山です。土小屋から石鎚山に登る際、遠くに頂上付近に笹原を
いただく瓶が森を見た頃から、いつか登りたいと思っていました。

その後、別の機会に土小屋で登山者と話していたら、瓶が森はふもとから登ると、歩いても歩いても着かないという話を聞き、
登るならふもとからと、ナゼか刷り込まれてしまいました。機会があるたびにどうやったら登れるか考えたものの、標高差、
歩行時間からでてくる結論は、登れるか登れないかギリギリの山というもの。

瓶が森に登るには、天候、体調、登山道への到着時間のいずれをとっても、万全の状態でないと難しいと考えてました。
今回、ようやくその条件が満たされたため、挑戦です。7:35 に東之川から登山開始。



東之川は、石鎚山ロープウェイの始発駅から少しあがった標高 548m 地点にあります。天気は快晴。ガイドブックによると、
ここから約 2 時間、針葉樹林帯をひたすら登るとあります。



でこぼこした根っこや伐採された葉などで足元の悪い中、うっそうとした針葉樹林帯を登ります。平坦な場所は少しも
ありません。2 時間弱歩いたところで、ようやく新道との合流地点に達します。



かつて利用されていた磯島新道は、名前のもとになったオーナーの山小屋がなくなってから、すたれてしまった模様。
この地点で標高は 1160m くらいあるはず。他の山ですと、これだけ歩けば広葉樹林帯になり、尾根筋もみえてくるころ。
ところが、このコースはその気配がまったくありません。それどころか、道標は全行程の半分にもいたっていないことを
示しています。

ガッカリするも、歩かないと先に進みません。次の目標地点を目指して歩きます。歩いていくと、ようやく針葉樹林帯を抜け、
広葉樹林帯に変わります。植生が変わった頃から、傾斜が増した上に、足元がガレ場となり、滑って登るのが大変。
おまけに、倒木があったりして、乗り越えるのに時間がかかります。上りはよいけど、下りが心配。

しばらくすると、先行するパーティーに追いつきました。おお、このコースを登っているのは自分だけじゃないんだ。
石鎚山系のよいところは、景色がよいこと、道標がしっかりしていること、登山者と出会うことです。厳しいコースであっても、
登っている人がいるのといないのとでは大違い。元気がでます。昨年の東温アルプスでは誰とも出会わなかったからなあ。

ようやく、次の目標地点の台が森鞍部、標高約1500m に到着です。



時刻ははや 10:25。自分の心づもりでは、11 時までに山頂に着かなければ諦めようと考えていました。この直前にすれ違った
登山者から、山頂まであと 1 時間くらいと聞かされていたので、黄色信号です。

台が森鞍部という名称から、笹原の端だと勝手に勘違いしており、ここからは山頂を眺めながら笹原を歩くのだと思ってました。
堂が森や笹が峰がそうなってますから。ところが、そうはならず、ここが尾根筋になっており、そこからさらにジグザク上に
登らないといけないのでした。

時間の割に目的地に近づかないので気は焦りますけど、木々の間から見える景色は、久しぶりの高度感。昨年の
東温アルプス・シリーズは 1200m 前後、この前登った高月山が 1200m ですから、やはり景色が違います。



結局、頂上直下の笹原に出るまで、さらに 50 分かかり、頂上直下のキャンプ場に着いたのは 11:20。この時点で
引き返す時刻を過ぎています。正面には石鎚山、背後には瓶が森山頂がきれいに見えているものの、山頂まで、
あと 4、50 分かかりそう。



時間もさることながら、上ってしまうと、足の筋肉が終わってしまうのは明らか。残念ですが、昼食をとって引き返すことに
決定。笹原に座って、山頂(女山、男山)を眺めます。あと、もう少しだったんだけどなあ…。



つい先ほどまで見えていた石鎚山が、みるみるうちに雲に覆われていきます。ガスってきたこともあり、急いで下山します。
40代くらいの青いヤッケを着た男性が登ってきました。これから山頂までいくと言います。大丈夫かな。



人のことを心配している場合じゃありません。台が森鞍部まではよいとして、そこから先のガレ場が心配です。転ばないように、
上りと同じほどのスピードでくだってゆきます。近頃の問題は上りではなく下り。膝に痛みがでないようストックを使って慎重に
降りると、上りと同じくらい時間がかかってしまうのです。

針葉樹林帯に入り、新道との合流点まで戻ってきました。ウヘッ、まだ半分かよ。足の筋肉はもう終わっている感触です。

後ろでガサガサ音がするので振り返ったら、青ヤッケの男性がえらい勢いで下ってきます。すれ違ってから 2 時間も
たってないのに!慌てて道を譲ると、小走りに追い越してゆきました。トレイル・ランナーの方?この速さなら、山頂まで
行って引き返してきたと言われても信じます。

私はひたすら牛歩。下ること 3.5 時間。ようやく登山口に到着。

瓶が森、歩いても歩いても山頂にたどり着けませんでした。

今回はっきりわかったのは、このコースが健脚向けであるということ。出会った何人かの登山者のうち、一人は
トレイル・ランナーと思しき方。それに、キャンプ場で出会った方によれば、地元警察の山岳救助隊が訓練にも使用して
いる模様。還暦オヤジはお呼びじゃありません。

山頂までいけなかったのは残念です。しかし、最高の条件のもと、無事に下山できたので、敗北感はありません。
今の私には川之石から瓶が森に登る力がなかっただけのこと。

幸い、瓶が森山頂近くには UFO ラインという車道が走っており、大半の方はそこから山頂を目指します。私も、いずれ
その方法で山頂を目指すことにしましょう。だったら、最初からそうしろよって? ごもっとも。

10 月 8 日 W1 とランデブー
イヤイヤイヤ、先日のバイクでのお散歩は楽しかった。何が楽しいって、カワサキ W1 と一緒に走って、排気音を堪能
できたから。

昔からカワサキの W1、W3 が大好きです。Wシリーズの中でも比較的新しい方の W3 でさえ、自分が限定解除した
1992 年頃には製造中止から 15 年以上たっていたため、さすがに所有しようとは思いませんでした。それでも、走って
いれば、必ず目で追ってしまう、憧れのバイクです。

憧れるのは、特徴的なクランク・ケースに代表される金属感と、あの特徴的な排気音。フェンダーからサイド・カバーに
いたるまで、プラスチックを感じさせる部品がほとんどなく、いかにも鉄のかたまりという風情で、その排気音は腹に響きます。

自分が走行していてすれ違うことはあっても、目の前を走っていることはほとんどありません。ところが、先日は田舎の
空いた道で、前を走るのは W1 だけという絶好の状況。

ワタシは国道197号を大洲から梼原方面に向かっており、野村に向かう県道35号に城川で右折しました。その私の
目の前を、対向車線からきた青い W1 が左折していくじゃありませんか。対向車がいたため、すぐに右折できなかった
ものの、W1 の背中は遠くに見えます。

フル加速して追跡開始。ノンビリ走ってるかと思いきや、60km で走っても近づかないので、W1、結構いいペースで
走ってます。追うこと数分。追いつきました。

W1 のライダーはカーキ色のTシャツにチノパン、ソールが白い黒のワークブーツをはいて、バイザーなしの白い
ジェットヘルをかぶっています。背中から受ける印象から、私よりも若い 50 代の方とお見受けしました。

あおり運転と勘違いされないよう、適度な距離をあけてついてゆきます。快晴のもと、エンジンの各パーツを陽光に反射
させながら、W1 は快調に走ります。60k〜80k の間なので何とかついてゆけますが、さすがに 650CC もあると瞬発力があり、
油断すると置いてゆかれそうになります。

W1 のライダーは、ご自身で音を楽しむために適度にアクセルを開閉するため、こちらもそのご相伴にあずかれます。
何で分かるかって?だって、トンネルの中でわざとアクセルを開閉して、音を響かせているんだもの。

野村の街中を抜け、西予市街に近づいてくると、さすがに車の後を走るようになり、バイクのペースでは走れなくなりました。
いつまでも金魚のフンにまとわりつかれるのが嫌になったのか、それとも、車のペースが嫌になったのか、前の車を
少し無理めに追い越していったので、ついていくのはそこでやめました。

ついて走ったのは、西予市までのわずか 30 分くらいでしょうか。それでも楽しい時間でした。


9 月 19 日 遊子水荷浦
宇和島の遊子水荷浦に行ってきました。国の重要文化的景観にも選定されている段々畑です。

一段の幅が 1 メートルにも満たないようなわずかな農地を作ってじゃがいもを収穫するために、どれほどの労力と期間が
かかったのでしょう。八幡浜のみかん畑もかなりのものですけど、この段々畑にはかなわないかも。



登ってみると、その傾斜具合と、積み上げた石の量に圧倒されます。これだけの石を集めるだけでも大変なのに、それを
かついで登るわけですから。





先人の苦労に思いをはせるばかりです。

9 月 19 日 外語印刷とその時代4(アルバイトの功罪)
アルバイトをしてよかったのは次の五つです。

一つ目は、アルバイト代が入ったこと。このアルバイトを続けることで、経済的に困窮した記憶がありません。そりゃあ、
喫茶店に入ってコーヒーを飲むよりも自動販売機のコーヒーですませるような学生生活でしたけど、学生らしい生活を送る
上ではということです。おかげさまで、バイクで日本中を回ったり、クラブの合宿に行ったり、後輩におごったりする際の
資金源になりました。

もっとも好きなときにこのバイトに行けたわけではなく、長い休みになるとバイト生が飽和気味になるため、他の短期集中
バイトを探さなければならないこともありました。

二つ目は、学生生活の不足部分を埋めてくれたこと。私の大学はマンモス大学で、落伍者がでることを見込んで、
少し多めに入学させているとの噂がまことしやかに語られていました。授業は大教室が中心で、少人数の授業は
3 年生のゼミナールから。そのゼミナールも全員が受講できるわけではありません。おまけに、入っていたクラブが
ちょっと変わっており、年に数回の合宿が中心で、普段は何もしていませんでした。それだけではなく、部員数が
極端に減っていたので、クラブの詰め所に行っても知り合いに出会うことはほとんどありません。

大学には、これといった居場所がありませんでした。そんなわけで、たとえアルバイト先であったとしても、授業が
終わってから行く場所があるのは助かりました。

三つ目は、ブラインド・タッチができるようになったこと。私はその後、コンピューター業界に就職し、キーボードを使って
ソース・コードを入力するようになります。その際、ブラインド・タッチができるのは、入力が早いだけでなく、見た目がよいので
好印象を与えることができました。お客様の目の前で作業するときに、人差し指だけで入力するのと、10本の指をフルに
使って入力するのとでは印象が大きく違いますからね。きたない字でかかれた文章よりも、きれいな字でかかれた文章の
方が内容が正しく見えるのと一緒です。

四つ目は、人間関係の広がりです。今までは知り合うことのなかったオペレーターのお姉さんたちや、異なる学校、
学年のアルバイト仲間です。

お姉さんたちにはよくからかわれたり、多少気をつかったりしたものの、楽しく仕事をさせていただきました。K村さん、
I波さん、I川さん、S五三さん、F岡さん、Y山さん、H谷さん、S藤さん、Y田さん、K野さん、I間さん。皆さん、お元気かな。

そして、アルバイトの先輩。CB750F に乗っていたM田さんには、筑波サーキットにつれて行っていただいたり、初日の出を
一緒に見に行ったりしました。同じくバイク乗りで XJ750E に乗っていたY田さんには、下宿に招いていただいたことが
あります。お二方ともよくしてくださったのですけど、重なっていた期間は 1、2 年です。

他にも、医学部浪人生でいつも穏やかなS木さん、いかにもな慶応ボーイのK頭さん、アルバイトの先輩だけど学年は
一つ下の中島圭一君など、いろいろな方がいました。

立教大生だった中島君は、大きな体に似合わず細かいことに向いている適性を見込まれたのか、学生ながら帳簿づけを
行っていました。千葉に住んでおり、終電が早かったことや、お酒が飲めないことなどから、バイト以外で会ったことは
ありません。しかし、バイトで共有した時間が一番長いのは中島君です。同じサークルに好きな女の子がおり、デートした
だの、冷たくされただのと、こと細かに聞かされました。後年、意中のお相手と結婚したときには、人ごとながら嬉しかった
ものです。

五つ目は、人に認められる経験をしたことです。それまでは、家族、友人、学校の先生との関係が主でした。ところが、
まったく見ず知らずの社会人と人間関係を構築し、そこで認められるという経験は初めてのことだったので、自信に
つながりました。

逆に、後に悪影響を与えたと思われるのは、深夜まで作業をしたこと。夕方、授業が終わってからアルバイトに行き、
作業があれば終電近くまで作業してました。前述のとおり、慣れてくるとオペレーターが退社した後も一人で作業できることと、
中央線の最終電車「三鷹行き」で帰宅できることが分かったことから、遅くまで仕事してました。

会社員になってからも終電近くまで働いていたのは、学生時代から慣れてしまっていたことも一因だったろうと思います。

本来なら、外語印刷のことを中島君と振り返りたかったなあ。しかし、それはもうかないません。なぜなら、中島君は
2001 年 7 月に、薬石の効なく、38 歳の若さで帰らぬ人となったからです。少しでも中島君の記憶が残るようにとの
思いから、中島君だけは実名で記載しました。

こうして振り返ってみると、外語印刷には大変お世話になりました。

9 月 19 日 外語印刷とその時代3(アルバイト内容)
アルバイトの仕事は次のようなものでした。主な業務が 1. で、2. 以降は個人の適性に応じて頼まれたり、頼まれなかったり。

    1. 成果物のチェック・修正
    2. 納品・集金
    3. 経理
    4. 買い物などの雑用

1. 成果物のチェック・修正
お客様からの依頼のあった原稿は、原稿の幅、行間、フォントのサイズ、スタイル、納期などを指示した指示書とともに
オペレーターに渡されます。オペレーターは作業が完了すると、それを入力完了の棚におき、次にアルバイトが、指示書、
原稿と成果物を見比べて、原稿の幅、行間、フォントのサイズ、スタイル、原稿どおりに出力されているかなどをチェックします。
単語の打ち間違いがあれば、オペレーターに伝えて、修正用に 1 行か 2 行、印字してもらい、それを上に貼って修正します。



私たちがチェックしている時点でオペレーターは次の作業をしており、そこに割り込む形で修正をお願いすることになるので、
このタイミングには気を遣いました。オペレーターからすれば、誤りを指摘される上、作業を中断されるわけですから面白い
はずがありません。

このため、オペレーターの作業を邪魔しないよう、アルバイターでもタイピングができるようになることが求められ、アルバイト
初日に教本と、手動タイプを貸与されました。私も家にもって帰り、人差し指でFJFJFJ、GHGHGH と練習したものです。

ブラインド・タッチができるようになるとアルバイトの先輩からコンポーザーの使い方を教えてもらいます。そうすると、
オペレーターにお願いせずとも、修正用の文章を自分で打てるようになるので、自分も作業がしやすくなります。

あとは、修正用の文章をカッターで切り取って、元の文章の上にペーパーセメントで貼り付ければ修正完了です。



もっとも、自分で打てるのは英文だけで、フランス語、ドイツ語、スペイン語の場合は、オペレーターにお願いするしか
ありませんでした。

2. .納品・集金
成果物は、お客様が取りに来るのが基本でした。しかし、場合によってはお届けにあがることがありました。また、集金も
件数が少ないながらアルバイトが行って、現金や手形を受け取ってました。

その際は、社長のセリカ1600を使うことができたので、運転好きの私には天国でした。アルバイト代をいただいた上で、
クルマも運転できるなんて。

今にして思えば、S本さんの前で運転したことはなかったはずなのに、良く任せたなあと思います。これは、アルバイト先の
先輩のおかげでしょう。先輩にバイク乗りの方がおり、その方たちもS本さんの車でお使いに行ってました。このことから、
バイク乗りなら車の運転も大丈夫と判断したものと推測します。

3. 経理
驚くことに、帳簿つけもアルバイトが行っていました。さすがにこれは誰でもというわけではなく、特定の人が行っていました。

4.買い物などの雑用
領収書に貼る収入印紙を近所に買いに行ったり、平和相互銀行に行ったり、社長が手土産に持って行くお菓子を
ギンザ・コージーコーナーに買いに行ったり、夜食の注文をしたりなどはアルバイトが行っていました。

それにしても、集金にしろ、帳簿つけにしろ、よくアルバイトに任せたなあと思います。S本さんは、使用人を使う経験を
身近でしてきたので、抵抗がないのか、それとも、人を見る目に自信があったのか。おそらく両方でしょう。幸い、
クルマもお金もアルバイトに起因する事故はありませんでした。

次はアルバイトの功罪についてです。

9 月 19 日 外語印刷とその時代2(社長)
社長はS本さんという女性です。小さな会社とはいえ、女性社長は珍しい時代でした。当時、40 代前半でしょうか。この方、
The 商売人という方でした。なんでもご実家が東京東部のスーパーマーケットの創業家だそうで、スーパーは旦那さんが
継いだようです。S本さんは、子育てが終わるとすぐに、タイピスト修行を開始。数年で独立して外語印刷を起業したそうです。
社長夫人として家業を手伝うという選択肢もあったはずなのに起業したのは、単に商売が好きだったのか、それとも、
自分にも商才があることを示したかったのか。私には後者にみえました。

私がアルバイトをしていた数年の間にも、デザイナーを雇って版下まで引き受けられるようにしたり、原稿の翻訳も引き受けて、
お客さんからみたらワンストップですむようにしたりして、業務を拡張していました。また、当時は新しかったベルトールドも
導入し、コンポーザーは当面の利益確保用、ベルトールドは将来への投資と考えていたようです。このような実行力や
決断力は、それまで子育てをしていた普通の主婦が身につけられるとは思えません。やはり、商家の血筋によるものでしょう。

今にして思うと、あの規模の会社によくベルトールドを導入したなあと思います。コンポーザーの購入、保守費用だって
馬鹿にならなかったはずです。ひょっとすると、リースだったのか、それともベータ・カスタマーということで大日本インキから
特別な割引があったのか。アルバイト学生には想像がつきません。

この社長を筆頭にオペレーター(タイピストのこと)が数名、それにアルバイトが数名という構成でした。オペレーターは
女性ばかりなので、社長が女性というのはやりやすいこともあったでしょう。セクハラやパワハラの可能性が低いとかね。
その半面、難しい面もあったろうと想像します。たまにですけど、社長とオペレーターがお互い感情的になってやりあっていた
記憶があります。

大学卒業後は、外語印刷を訪れることはありませんでした。S本さんに最後にお会いしたのは、アルバイト仲間の結婚式の
披露宴。おそらく、卒業してから 10 年はたっていなかったと思います。

学生当時は「バカですねー、このヒトは」で始まる言葉で、たくさんのことを教えていただいた私ですが、そのときには、
社会人らしい締まった顔になったとほめていただきました。

私は商売っ気がなかったので、商売に関するちょっとしたノウハウを説明してもらうようなことはありませんでした。ところが、
バイトの先輩、K頭さんには商売っ気を感じたらしく、S本さんはちょくちょくその手の話をしていたようです。K頭さんは
卒業後も外語印刷を訪れていたと、後に他の方から聞きました。

その披露宴の際、既に外語印刷を閉じたこと、中野の新井薬師駅前で新たに回転寿司屋を開いたことをS本さんから聞きました。

外語印刷を閉じた経緯は聞かなかったのか、聞いても忘れてしまったのか、記憶が定かでありません。コンピューターが
社会に入りだした時代だったので、印刷業界も変革の大波を受け、中小企業の存続が難しかったことは想像にかたく
ありません。とはいえ、新たな事業に取り組んでいるというのがS本さんらしいというか、それにしてもなぜ外食産業
だったのでしょう。

S本さん、私よりも年齢が +20 歳以上なので、今は 80 歳以上の計算です。いまでもお元気だといいなあ。

次は、アルバイトの仕事内容についてです。

9 月 19 日 外語印刷とその時代1(概要)
藤野千夜の小説、「編集ども集まれ」を読みました。こちらは、神保町にあった漫画誌出版社の編集部にアルバイトとして
入り、後に社員となった主人公の物語です。漫画業界についてはほとんど知らないながら、神保町に親しみがあるため、
楽しく読みました。読み終わったあと、神保町から比較的近い、飯田橋のアルバイト先のことが猛然と思い出されたため、
今回はそのアルバイト先についてふれます。今から 40 年前の学生時代のはなしです。

アルバイト先は外語印刷株式会社です。名前からは大きな会社の印象を受けるかもしれません。実態は、飯田橋北口の
五差路を通り越して目白通り沿いのマンションの一室にあった会社です。



このバイトをどうやってみつけたかは記憶が定かでありません。おそらくアルバイト・ニュースで見つけて、面接にいったのでしょう。
アルバイト・ニュース、当時、学生にとって唯一のアルバイト情報誌でした。

大学からも近く、何となく性にあったことから、大学2〜4年までアルバイトしてました。1983 年〜 1986 年のことです。
飯田橋駅前の複合ビル「ラムラ」の開業が 1984 年ですから、奇しくも飯田橋が大きく変わるのを目の当たりにしたわけです。

1980年代というと、まだコンピューターが世の中に出回っていない時代です。Windows 3.1 の登場が 1990 年といえば、
それ以前であることがおわかりになるでしょう。

当時、印刷物を作ろうと思った場合、次のような工程が必要で、それぞれの工程を小さな会社が分業していました。

    文字組み(手書き、タイプ、写植・活版)
    ↓
    版下
    ↓
    製版
    ↓
    印刷
    ↓
    製本

どういうわけか飯田橋の西の新宿区側には印刷関連の会社が多くあり、少し路地に入ると印刷所や製本所がありました。
フォントを作っているモリサワの東京本社もすぐ近くにありました。

そんな場所で、外語印刷が行っていたのは欧文タイプです。上の工程でいくと「文字組み」に該当します。カタログ、
取扱説明書、販促資料、歌詞カード、学会誌など、手書きの原稿や、過去の印刷物を踏襲した原稿をもとに英語、
フランス語、スペイン語の文章をタイプで出力するのです。そんなことパソコンですぐできるじゃない、というのは現在の
はなし。当時、欧文をきれいに出力するには欧文タイプを依頼する必要がありました。その出力された文章をもとに、
次の工程で版下を作成するわけです。

当時、使っていたのは IBM のコンポーザーという電動タイプライター。IBM では Selectric Composer と呼んでいたようです。



このコンポーザー、ゴルフボール・フォントという、名前どおりの形状をしたフォントを交換することでセンチュリー、
プレスローマンなどのフォントを印字できました。また、幅を指定するとその幅に収まるように単語の間のスペースを調整して
くれたり、封筒くらいのサイズの磁気メモリー・カードに出力内容を保存したりできるすぐれものでした。機関銃のような音
で印字していくのが印象的だったなあ。

コンポーザーの保守は日本オフィス・システム(NOS)が担当していました。何でそんなことを覚えているかというと、後年、
自分がコンピューター業界で働いていた際、NOS の社名を見て外語印刷のことを思い出したから。

その後、社長の方針で大日本インキが取り扱っていたドイツのベルトールド社のマシンも導入。これはワードプロセッサー
だったのか、コンピューターだったのか判然としません。今回、ネットで調べてみたところ、phototypesetting と紹介されて
いましたので、写植機ですね。オペレーターが、風呂場を改造した現像室で何かしていたのも納得です。写真と同様、
印画紙を現像する必要があったわけです。

コンポーザーは、アルバイトも使うように教育されたのに対し、最新かつ高額なベルトールドのマシンは、研修した社員しか
使えなかったたため、何がどうなっていたのかよくわかりません。

次は、そこの社長さんのはなしです。

9 月 2 日 しまなみ観光(その3)
伊東豊雄建築ミュージアム

こちらは建築家、伊東豊雄のミュージアムです。伊東氏がこちらの出身というわけではなく、今治市がミュージアムを
誘致したとのこと。敷地内にはスティールハット、シルバーハットの 2 つの建造物がたっています。





伊東豊雄のこれまでの建築作品に関するパネル展示があるのかと思いきや、それはなく、伊東豊雄が主に大三島で行った
地域おこしに関する説明が中心です。正直に言うと、肩すかしをくらった印象はいなめません。でも、スティールハットの
大きな窓のそば、およびシルバーハットのベンチに座って、対岸の大崎上島町を眺めているだけで飽きることはありません。
それを体験するだけでも、行く価値があります。



亀老山展望台
そして最後はこちら、大島にある亀老山展望台。独特な構造の展望台を設計したのは隈研吾です。





こちらに来るのは 3 回目。こんなに人がいるのは初めてのこと。以前に来たのが 3 月、4 月だったせいか、寒くて
誰もいませんでした。ところが、季節がよいせいか人だかりができています。ちょっと密なのが心配ですけど、皆さん楽しそう。

先の、ほかの二つの展望台もそれぞれ魅力があります。それでも、亀老山にはかないません。なんといっても、複数の島を
つなぐ来島大橋が眼下に一望でき、そこに沈む夕陽を見られるから。





今回巡ったのは、大島と大三島だけ。しまなみ海道沿いにある島はほかにも、伯方島、生口島、因島、向島があり、その周辺
にもさらに島があります。

異なる島に行けば、さらに違った景色が見えるわけです。瀬戸内海の島を網羅することはできそうもないけど、また
行きたいぞ瀬戸内海!

9 月 2 日 しまなみ観光(その2)
今回、一番行きたかったのが大三島にある神社、大山祗(おおやまづみ)神社です。



恥ずかしながら、「瀬戸の島旅手帖」を読むまで、その存在を知りませんでした。境内にある説明文には「延喜式には
明神大社に列し、伊予国一宮に定められ、官制に依り国幣大社に列せられた四国唯一の大社」となっています。




神社の社格は、古くは平安時代の延喜式から昭和の第二次大戦直後まで変遷があるようです。厳密なことはさておき、
近代社格制度では次のような序列になっていて、一番上にある官幣大社が最上位の社格になります。

  官幣大社(62社) : 明治神宮、三嶋大社、諏訪大社、熱田神宮、春日大社、出雲大社など
  国幣大社(6社)  : 大山祗神社など
  官幣中社(26社) : 貴船神社、北野天満宮、厳島神社、大宰府天満宮など
  国幣中社(47社) : 鶴岡八幡宮、金刀比羅宮など
  官幣小社(5社)  :
  国幣小社(44社) :
  別格官幣社(28社): 日光東照宮など

こうしてみると、国幣大社というのが意外なほど上位にあること、その割に知名度がないことがわかります。香川の
金刀比羅宮は四国の中で規模や知名度の点で抜群に有名ですが、正式な格式では大山祗神社の比ではありません。





さらに驚いたのがこちらの宝物館。公式サイトのことばをかりると「全国の国宝・国の重要文化財の指定を受けた武具類の
約8割が、ここ大山祇神社宝物館に保存展示されています。甲冑の保存は全国一で、日本最古の平安中期の鎧をはじめ、
鎌倉期〜戦国時代まで各時代の代表する名品が展示されています」とあります。

見ていると、源頼朝、源義経、木曽義仲が奉納した甲冑や刀剣がありました。甲冑や刀剣というと、江戸時代の天守閣、
例えば松山城などにも展示されています。しかし、これほど多くの甲冑、刀剣が並んでいた記憶はありません。しかも、
こちらのは鎌倉時代ですから江戸時代よりも何百年も以前のものです。

鎌倉時代といえば、現在、NHK で大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放映されています。番組冒頭のテーマソングがながれて
いるときの背景に甲冑が並んでいるシーンがあり、まるでこちらの展示室を模したかのようでした。こちらの展示室を参考に
したのでは?というのがカミさんの推測です。

大山祗神社のある大三島、今でこそしまなみ海道のおかげで四国、本州とつながっています。しかし、それ以前は瀬戸内海の
離島の一つにすぎませんでした。なぜ、このような離島にこんな立派な神社があるのか不思議です。大変、勉強になりました。

9 月 2 日 しまなみ観光(その1)
せっかく子どもが帰ってきているので、日帰りで観光してきました。行き先は「しまなみ海道」。以前から漠然と瀬戸内海に
対する愛着はありました。それが、映画「ドライブ・マイ・カー」(広島〜呉が舞台)を見たことで刺激され、「瀬戸の島旅手帖」
という本を読んだことがダメ押しとなって、瀬戸内海に対する意識が高まっていました。

「瀬戸の島旅手帖」、詳細な情報は記載されていないので、いわゆるガイドブックとしては使えません。でも、行きたい気に
させるという点ではよい本です。この本を読んで、瀬戸内海の美しさは島しょ美にあることを再認識したため、高いところにある
展望台を中心に回ることにしました。

こちらの地図をご覧になるとしまなみ海道沿いの位置関係が分かります。

糸山展望台、来島海峡展望館
最初は何と言ってもここ、しまなみ海道の四国側の出発点である糸山展望台。来島大橋が一望できます。大きいと分かって
いても、来るたびに橋脚の大きさに圧倒されます。ここは、大きな建造物を間近に見られるだけでなく、大型船舶が頻繁に
とおるため、見ていてあきません。八幡浜近くの瀬戸内海は、本州側に航路が設定されているらしく、大型船舶がとおることは
めったにありません。



カレイ山展望台
こちらは大島の北側にあるカレイ山展望台。南部にある亀老山展望台はテレビなどでも紹介されて有名であるのに対し、
こちらは空いています。眼下に伯方・大島大橋や、鵜島付近の速い潮流などを見ることができます。展望台、今回はハチの巣が
あるということで立ち入り禁止になっており残念。それでも、このような景色を見ることができます。



9 月 2 日 レコード・プレーヤー(その3)
さっそく、毎日のようにレコードを聞き比べています。まだ結論を出すには早すぎますけど、いいこともあればそうじゃない
こともあります。

まず、一番よいのは、以前のプレーヤーでは感じることのできなかった音の広がりと、定位を感じられること。二、三回聞いた
だけで放置していた「インディゴ・ガールズ」のレコードをかけたところ、こんなに音が良かったんだとびっくりしました。
「ビートルズ」のアビー・ロードもこんなに音が広がっていたんですね。

微妙なのは、レコードの中心にいくに従って劣化する音質です。前のプレーヤーはこの傾向が顕著で、片面の最後の曲に
なるとボーカルやピアノの音が割れ気味になることがありました。SL-7 の場合、一律にそうなることはないものの、レコードに
よってはやっぱり音が割れ気味になることがあります。針を新品に交換した上で試したので、針のせいではありません。

予想外だった欠点は、最初の音が聞こえないレコードがあること。通常、レコードに針を落とすと「ボッ」と音がします。これを
避けるには人がボリュームを下げる必要があります。SL-7 はこれを機械の方でミュートしてくれるため、人が何もしなくても音が
することはありません。普通のレコードなら問題ないのですが、クラシックの古いレコードで、最初の余白部分が狭いものだと
最初の音がミュートされてしまうことが判明。

例えば、ベートーベン交響曲第五番「運命」の冒頭だと、あの有名な「ジャジャジャジャーン」の最初の「ジャ」が聞こえない
ため、「ジャジャジャーン」としか聞こえません。うーん、これは痛い。音質以前の問題です。テクニクスも相当な数の
レコードでテストをしたでしょうから、これは本来の状態じゃないのかも。発売当時、こんなことが判明したら売れるわけ
ありません。アームの位置を数ミリ、外にずらすことはできないのかなあ。こういうとき、オートは不便です。

もう一つ気になるのは、カートリッジと針の問題。SL-7 には本来 EPC-P202C というカートリッジに楕円針が採用されて
いました。楕円針というのがあるんですね。ところが、ウチにきた SL-7 についていたカートリッジは EPC-P24 というもの。
新品に交換した針は丸針です。要は、SL-7 本来の能力を試すのであれば、オリジナルの EPC-P202C に楕円針を
組み合わせないといけないのではないかということ。ちなみに、楕円針は丸針に比べてお値段が一桁違います。

それに、SL-7 について書かれたサイトを見ていると、カートリッジと針の組み合わせに言及されたものがあり、音楽の傾向に
合わせて使い分けしている方もいます。

これは悩ましい。私は、オーディオに興味はあるけど、オーディオ・マニアではありません。一般ユーザー以上、
オーディオ・マニア未満というところです。寺島靖国さんのオーディオに関する著作を読めば面白いと思う反面、
メートルあたり何万円もするようなスピーカー・ケーブルを付け替えたりするようなことはできません。ましてや、
聞くジャンルに合わせてカートリッジを交換するようなこともです。

聞いている音楽はフォーク、ロック、ジャズ、クラシックで、楽器はアコースティックもあればエレキもあります。それを
同じカートリッジのまま、少しよい音で聞きたいだけなのです。そもそも、こういう人は SL-7 を選んじゃいけないのか?

SL-7 の探求はまだ始まったばかり。手持ちの LP をとっかえひっかえ試しながら、一番相性のよい組み合わせを
探していくことにします。そのためには、まず EPC-P202C を入手しなきゃ。

9 月 2 日 レコード・プレーヤー(その2)
ヤフオクで落札したプレーヤーが到着したので、早速、設置して動作確認します。電源を入れて、「PLAY」ボタンを押すと
アームが動くはず…が、動きません。アレアレアレ。

SL-7 には、アームを動かすのにリニアトラッキングという方式が採用されています。一般的なプレーヤーは支点を中心に
アームが半円状に動きます。ところが、リニアトラッキングは直線状に動くのです。理屈はよくわかりませんけど、これが
音質向上に役立っているらしい。とはいえ、独特な機構にかすかな不安を抱いてました。さっそく不安適中です。

取扱説明書を見直しても、ロックの外し忘れもなにもありません。ウーン弱りました。自分でできることはしてみたものの、
いかんせん知識不足。いかに 40 年前の製品とはいえ、ウン万円払ってジャンク品を購入したなんてことになったら笑えません。

出品者に連絡したところ、この方、ご自分で修理もするオーディオ・マニアらしく、トラブルシューティングを指示されます。
指示に従って、2 つ 3 つ試しても埒があかないため、今度はバラすことに。この機種、アームを動かすモーターの回転力を
伝えるためにゴムベルトが使用されており、それが伸びたり、外れたりするようです。その修理方法を説明したサイトも、
購入前に見ていたので、いずれは自分でも行う機会があるかもと思ってましたけど、まさか最初からとは。

おそるおそるネジを外して、カバーを外したのがこの状態。ゴムベルトに問題はなさそうです。





カバーをもとに戻し、さらに指示に従って、いろいろ試したところ状況は悪化するばかり。とうとう出品者に送り返して点検して
もらうことになりました。

送り返すのは手間もお金もかかりますけど、それで動くようになるなら安いもの。この出品者さんが誠実な方で助かりました。
オークションの常套句である「ノークレーム、ノーリターン」を盾に、知りませんって言われたら、こちらにできることはありません。

点検してもらったところ、部品が折れていたのが原因でした。輸送中に折れたのか、私のさわり方が不適切で折れたのかは
わかりません。状況を逐一連絡してくださるのも助かります。

待つこと 1 週間、届いたプレーヤーを設置し、祈るような気もちで「PLAY」ボタンを押すと、アームが動きます。これだけで満足感を
感じます。その後、音がでることも確認できました。

最初はどうなることかと思ったものの、リーズナブルな値段で SL-7 を購入できたうえ、誠実な出品者とめぐりあえたので
良かったです。

9 月 2 日 レコード・プレーヤー(その1)
私の興味は、好きなことの間で常に揺れ動いており、そのときどきに応じてオートバイ(車)、レコード(CD)、山登り、映画の
いずれかにマイブームがあるというわけです。その結果をこうやって書き散らかしています。

つい最近のマイブームはレコード・プレーヤー。8月上旬に新しくレコード・プレーヤーを購入しました。購入した理由は、
プレーヤーが見劣りしていたことと、不具合があったことから。

約 20 年前にアンプ、CD プレーヤー、スピーカーをそれまでよりも上位のものに買い替えました。この組み合わせに
不満はなく、修理をしながら今でも愛用しています。しかし、レコード・プレーヤーがそのままだったのが、ずっと心残りでした。

それに加え、最近、YouTube で仙台の中古レコード屋さんの話を聞いていたら、レコードを水拭きするとよいということを
知りました。ウチにもあるんですよね、二、三回しか聞いていないのに、30 年くらいしたら音がぼやけちゃったレコードが。
ダメになってもよいレコードでおそるおそる試したところ、クリアに聞こえるようになりました。何でもっと早く試さなかったのだろう。

そんなことが重なり、レコードの持っている力を引き出してくれる上位のレコード・プレーヤーが欲しくなりました。
プレーヤー選びもバイク選びと同じで、自分に合った条件をもとに、楽しく迷います。条件は次のとおり。

  サイズ
  ターンテーブルの駆動方式(ダイレクト・ドライブ、ベルト・ドライブ)
  オートリターンの有無
  カートリッジの形式
  交換針の入手可能性
  値段など

最近の機種をみたものの、手ごろなものがありません。私が欲しい条件にするとサイズが合わなかったり、値段が合わ
なかったり。サイズの合うものは、音楽を USB に保存したり、ワイヤレスで飛ばしたりと余計な機能はついているのに
駆動方式がベルトドライブという具合です。

見ていくと、レコード・プレーヤーはどうやら 1980 年代にピークを迎えていたことが分かりました。つまり、レコード文化が
絶頂期を超えて CD が出現した頃です。この頃ですと、上記の条件の中に沢山のバリエーションがあり、高級機から
汎用機までたくさん選択肢があります。

またまたバイクを例にとると、バイクも 1980 年代がピークだったと考えています。エンジンでいうと、2 サイクル、4 サイクルが
あり、単気筒、並列2気筒、V型2気筒、直列2気筒、水平対向2気筒、直列3気筒、並列4気筒、V型4気筒、直列4気筒、
スクエア4気筒、並列6気筒、水平対向6気筒と、ありとあらゆる形式のエンジンが搭載されていました。
こうしてみると、1980 年代というのはよい時代でした。

結局、プレーヤーはテクニクスの SL-7 をヤフオクで落札。1981 年発売で、当時の価格は 7 万円です。高級機とはいえ、
40 年も前のプレーヤーを落札して正気か?と思われてもしかたありません。まあ、新品当時の能力が 100% 発揮できるとは
思っておらず、80% くらい楽しめればいいかなあ。



SL-7 を選んだのはサイズ、ダイレクト・ドライブ、および音がよいという評判が理由です。さてどうなることやら。


8 月 30 日 回らない寿司
子どもが帰ってきているので久しぶりに回転寿司に行きました。小中高のときはよく行ったなあ。最近の開店寿司、回って
ないんですね。回転寿司といえば、既にできたお寿司が回っているイメージ。でも、最新店舗では何も回っておらず、注文すると
ベルトコンベアにのってお寿司が届きます。

おそらく、アフターコロナになるにはまだ時間がかかると運営会社が判断し、店舗設備をリニューアルしたのでしょう。社会の
変化に伴い、商売の形式が徐々に変化することは経験済みです。例えば「レコード店」。レコード店といいながら長らく CD を販売
してました。そのレコード店も、サブスクに押されて最近、見かけません。
けれども、2020 年からわずか 3 年の間にコロナのせいでここまで業態が変わるのを目の当たりにするのは初めてかも。

若い人には、「回転寿司」という言葉も説明しないと通じなくなる日がくるかもしれません。


8 月 30 日 トップガン
映画「トップガン マーヴェリック」見てきました。ロシアがウクライナに侵攻しているこのご時世、大っぴらには言えませんけど、
「トップガン」よかったです。

ゴーン、という鐘の音が鳴り響く中、飛行甲板から飛び立っていく戦闘機。冒頭の音楽(トップガン・アンセム)を聞き、映像を見た
だけで、気分はもう1980 年代です。ストーリーは、そんな馬鹿なという荒唐無稽なもの。でも、久しぶりに、スケールの大きな、
これぞハリウッドという映画でした。

今回、どこら辺がよかったのか分析してみると、一番大きいのは時間があいて主人公が老齢になったことおよびノスタルジー
でしょう。「トップガン」の第一作は 1986 年公開ですから、主人公も 36 歳年老いたことになります。それにからめて次の 4 点が
ストーリーに関連していることが魅かれた理由だと思います。

1. かつての同僚との関係(横のつながり)
2. かつての同僚の息子との関係(縦のつながり)
3. かつての恋人との関係
4. 自身の衰え

また、ノスタルジーという点では、出てくる機械類が素晴らしい。主人公のバイクはカワサキのニンジャですし、恋人の乗る
ポルシェは 70 年代のナロー・ポルシェ、主人公が所有する趣味の飛行機はレシプロのマスタング P 51 ときて、搭乗する
戦闘機はジェットエンジンの F18 です。
まちがっても AI で動く電動自動車や無人のドローンではありません。燃料を燃やして動くマシンで、ドライバーやパイロットが
運転しないと動かないものばかりです。

見に来ているのは私と同世代のおじさんおばさんが圧倒的。男性会社員でしたら順調に出世して役員クラスになっているのか、
それとも、子会社に出向して、会社員としての終わりが見えているのか。皆さん、この 1 〜 4 について自分の経験と容易に
重ねられるでしょう。そして、還暦近くなった主人公が引き締まった体で走り、バイクに乗り、戦闘機を飛ばし、年相応の恋を
楽しんでいる姿に励まされるのです。

じゃあ、若い人に受けないのかというと、一緒に行った息子(19 歳)にも刺さったようです。終わった後、興奮気味に感想を
語ってましたから。

だがしかーし、調子にのって「父ちゃんはトム・クルーズと同い年なんだぜ」なんて言うのは禁物です。頭の中でトム・クルーズと
比較しちゃったらしく、絶句してましたから。悪かったな!トム・クルーズじゃなくて。

「トップガン マーヴェリック」、公開から 3 か月近くたつ現在も上映中です。1980 年代に青春時代をすごした方におすすめです。


8 月 30 日 学生らしい生活
これだけ人が移動しているので、子どもを大学のある地にとどめておく理由はありません。お盆前に帰省させました。松山空港に
到着したら早速、抗原検査です。幸い、陰性。とはいえ、現時点でコロナにかかっていないものの、明日になって発症しない保証は
どこにもありません。



二、三日、家で大人しくしていたと思ったら、中学・高校の友人たちも帰省しているらしく、今日は広島から帰った友人と花火を
見に行き、翌日は福岡、茨城、東京から帰った友人とカラオケ、さらにその翌日は山口から帰った友人と会うといった具合です。
大丈夫かなあ。きっと、よその親御さんも同じことを心配しているでしょう。

八幡浜高校でウチの子の 1 学年上の人の中には、東京の大学に進学したのに、1 年生の間は八幡浜からオンライン授業を
受けた人もいるようです。当然、友人もできなければサークル活動もできません。そんなことにはなってほしくないので、帰省して
友人と会えるのは望ましいことです。でも、コロナにかからないか、広めないかという心配は尽きず、親としては複雑です。


8 月 30 日 増えるはずだよ
コロナ感染者数に歯止めがかからない状態が続いています。政府が、行動制限をしない姿勢を明確に発信し続けたせいで、
祇園祭やねぶたのような著名なお祭りから、各地の盆踊りや花火大会も開催され、それに伴い観光や帰省で人が移動したの
ですから、とまるわけがありません。かくいう八幡浜でも 3 年ぶりに花火大会が開かれ、にぎわいました。
コロナがこわいので、私とカミさんは、ひと気の少ない遠くから鑑賞。

お盆をすぎて一週間がたった今、都市圏では減少傾向に転じたようですが、地方では記録更新中です。いつになったら収まる
のでしょう。


8 月 30 日 ペルー産
ひょんなことから長野の方とメールのやりとりをしていたら、温州みかんについて知らないはなしを聞きました。なんでもその方は、
夏のこの時期になるとペルー産の温州みかんを取り寄せているそう。みかん王国を自称する愛媛で温州みかんといえば
10 〜 12 月に出回るみかん。それが、7 月に出回っているというから穏やかじゃありません。

さっそくネットで検索してみるとありました。ペルーでみかんを最初に育てたのは日系ペルー人だそう。日本でお目にかからなかった
のは最近まで輸入が禁じられていたため。

愛媛ではもっぱら和歌山産の温州みかんがライバル視されています。まさか外国産の温州みかんも競争相手になっているとは。
みかん農家はライバルが多くて大変です。


8 月 30 日 6、7月の備忘録
久しぶりの更新です。簡単に言うと、雨、猛暑、コロナで出かける機会が少なく、書くことがなかったということですね。

6 月中旬までタケノコの見回りを続け、それが終わるかどうかという 6/13 頃に梅雨入り。これで屋外での作業は当分できないな
と思っていたら、記録的な速さで 6/28 には梅雨あけ。それから一週間はこれまた記録的な猛暑が続き、四国では渇水の危機に。
ところが、その次の週あたりから梅雨に戻ったかのような雨が続き、結局、いつもの梅雨と変わらない状態に。
それと並行するかのようにコロナの第七波が広がる中、7/8 には元首相が奈良で撃たれて亡くなるという前代未聞の事件が
起きた、というのがこの 2 か月でした。

梅雨に関しては、結局、例年通りの雨量となったものの、ベランダの植物の成長を見ていると、一か月遅れているようにみえます。
調子がくるってしまったのかも。通常、梅雨あけ頃にでてくるシャコバ・サボテンの新芽がなかなかでなかったり、キンバイカの
若葉の数が少なかったりするからです。こちらは久しぶりに咲いた、キンバイカの花。



みかんは大丈夫なのかな。

6 月 8 日 坂村真民記念館に行って考えた
先日、バイクで散歩しに行った際、坂村真民記念館に寄ってきました。坂村真民は、砥部焼で有名な松山市砥部で暮らして
いた詩人です。

偶然、立ち寄ったように書いてますけど偶然ではありません。ここを目的にツーリングがてら行ったというのが正解です。
真民の名前だけはどこかで知っていました。でも、興味がわかず調べることもありませんでした。それが先週、記念館がある
ことを新聞で知り、行ってみようと思ったのです。何でだろう。歳のせい?

記念館はこじんまりとしているとはいえ、新しく立派なものでした。真民の経歴から始まり、自筆による詩が展示してあります。
熱狂的なファンがいるらしく、全国から訪問客があるようです。この日も兵庫からきたというご夫婦がいました。



ちなみに、館内での写真撮影は許可されており、この手の記念館、美術館では珍しいことです。



作風はというと、こんな感じ。



何となくですけど、あいだみつをを彷彿とさせる作風です。毛筆で書いた自筆の詩というのが似ているのかな。帰って調
べたところ、世にでたのはあいだみつをよりも真民の方が早かったようです。

あいだみつをの詩が、そんなにがんばらなくてもいいじゃないと言っているのに対し、真民の詩は、負けずにがんばれと
叱咤激励する詩が多いように感じます。ご本人も心が強い方だったのでしょう。

真民の詩、熱狂的ファンがいるのは理解できました。しかし、私には、寒サノ夏ニハオロオロアルく宮沢賢治の方が好ましく
感じました。

作品だけでなく、人となりや、50 代以降に世間から認められて以降の生活などの様子も分かってしまったことが、そのような
印象を与えるきっかけになったようです。

あいだみつを、坂村真民、宮沢賢治は 3 人とも不遇の時代を経験しています。このうち、前の二人は晩年とはいえ、世間に
認知されるようになり、社会的評価を受けています。それに対し宮沢賢治は生前に社会から評価されることなく、この世を
去っています。そのような差が作品にもにじんでいるような気がします。

作家ご本人や家族からすると、生前に社会から評価され、経済的に安定した方がよいことは明らかです。でも、その安心感や
満足感が作品に表れてしまうのは、受け取る側からみてよいことなのかどうか、難しいところ。

私だって、今回、記念館で真民の経歴や晩年の様子を知ったからこんなことを書いているわけで、作品だけ見ていたら
おそらく違う印象をもったでしょう。

かるーい気持ちで見に行ったら、結構まじめに考えこんでしまいました。


5 月 10 日 ツール・ド・ブルーアイランド

高月山に登ろうと、登山口の高月温泉に行ったところ、ゼッケン付きのオフロード・バイクが集まっていたので驚きました。
オフライン・ミーティング? 写真をとったので、後から調べればいいやとその場では何も尋ねずに登山を開始。





その後、山頂で会った方がバイクにも乗る方だったので、聞いてみたところ、Tour de blue island というエンデューロ・ラリー
であることが分かりました。四国を舞台に公道とスペシャル・ステージ区間で競争するようです。帰って調べたら、5 日間で
四国の中を 1600km も移動し、その内、オフロードが 260km もあります。



5/2 に松山に映画を見に行った帰り、高速道路の対向車線をゼッケン付きのオフロード・バイクが走っているのに気づきました。
あれは移動中の参加車だったのでしょう。腑に落ちました。

多い日には一日で 410km も走ることになっています。高速道路を使うにしてもオフロード・バイクでの高速道路走行は厳しいものがあり、
決して楽ではありません。かつて、250cc のオフロード・バイクで紀伊半島の先端から一般道のみを使って東京まで帰ったことがあります
(伊勢湾はフェリーで横断)。距離にして 400km 以上、時間にして 16 時間近くかかりました。最後はヘロヘロになり、まっすぐ走るのも
苦労しました。そんなことを 5 日間も行うのですから、厳しさはいかばかりでしょう。

公式ホームぺージを見ても、コースなどの詳細はよくわかりません。ひょっとすると、意図的にそうしているのかも。モーター・スポーツは
世間から印象があまりよくありません。また、あまり公にすると行政や警察から物言いがついたり、取締の対象になったりすることもある
でしょうから。

下山したら、あとかたもなくいなくなっていたので、こじんまりとゲリラ的に運営している印象を受けました。

それにしても、四国に移住してはや 6 年。自動車・バイク関係のイベントには注意していましたけど、いまだに知らないことがあるなんて。
ビックリしたなあ、もう。


5 月 10 日 高月山
南予で最高峰の高月山に登ってきました。最高峰っていっても 1229m ですけどね。だが、しかーし、この山、標高差が800m くらいあり、
山頂まで 3 時間くらいかかるので、今の私には体力的にギリギリの山です。

昨年は東温アルプスに集中して登りました。さて、今年はどこにしようかと考えたとき、冬の間に 2 回歩いた滑床渓谷の南にある高月山に
登りたいと思うようになりました。地図を見ていたらコースにバリエーションがありそうだから。



本当は滑床→梅ケ成峠→高月山→東高月山→鬼王峠→滑床という周回コースに行きたかったのです。しかし、コース・タイムを計算すると
山頂まで 4 時間オーバーとなり、私の体力の限界を超えそうなことから、オーソドックスな高月温泉から登ることにしました。コースも
分かりやすそうですしね。

結論からいうと、このコース選択は正解でした。私が行きたかったコースを逆回りに登ってきた方と山頂で話したところ、私が行こうとした
コースは下り道で迷っていた可能性が高いことが分かったからです。危ない危ない。

高月温泉から出発し、早々に道が分からなくなります。どうやら川を渡るらしい。コースが分かりにくいのは南予の山のお約束です。
それにしても何とかならんかね。

今回、怖かったのは崩れかけた桟道です。桟道が何か所かあり、そのうちのいくつかは崩壊してました。崩壊していない桟道でも、
おっかなビックリ渡ります。今回は晴天だからよかったものの、雨の日だったら最悪です。傾斜がついた上にコケむした桟道を歩くのは
氷の上を歩くようなものでしょう。





林道を横切る際に見えた山頂。まだまだ遠いなあ。



高月山のある鬼ケ城山系はシャクナゲが多く、今回は見ごろでした。私はたまたまだったものの、シャクナゲ目当てに登ってきたリピーターも
複数いらっしゃいました。





尾根にはでましたが、なかなか山頂に近づきません。



ミズバショウみたいな植物がはえています。水はないんだけどなあ。山頂であった方からバイケイソウという植物で、毒性があることを
教えてもらいました。だから鹿などの動物に食べられず残っているわけね。



最後の急登を登り、ようやく山頂に到着。山頂、一方向にしか視界が開けていません。





視界はイマイチでしたが、今回は山頂で複数のパーティーから情報収集できて有益でした。鬼ケ城山系で景色のよい山はどこかとか、
反対側の滑床に降りるコースはどうかとか、スーパー林道についてとかです。

鬼ケ城山系を含む南予の山には、昭文社などがだしている登山地図がありません。しかたがないので国土地理院の25000分の1 の地図を
もっていってます。この地図は登山地図ほど情報は充実していません。したがって、地図にない情報はこうやって収集する必要があります。
皆さん親切なうえ、話しやすい方が多く、ついつい話し込んでしまいました。

昼食も食べたことですし、下山することにします。途中、梅ケ成峠を通りこして、次回以降のために道を確認します。結論からいうと、
よくわかりませんでした。ある程度行ってはみたものの、スーパー林道にぶつからなかったので、引き返しました。やっぱり南予の山は
分かりにくい。



後はひたすら 2 時間、これでもかというほど山をくだり、出発地点の高月温泉につきました。無事に戻れてよかった。


5 月 10 日 大はずれ
いやいや、映画を見にいってハズレをひくことほど辛いことはありません。今回、ハズれたのは「パワー・オブ・ザ・ドッグ」。

舞台は 1925 年のモンタナ州。牧場を営む粗野な兄と寡黙な弟。この弟が近くのレストラン兼ホテルの未亡人と結婚し、兄と同居することから
物語は始まります。

3 月、4 月とアカデミー賞ノミネート作品である「ウェストサイド ストーリー」、「ドライブ・マイ・カー」、「ベルファスト」をたて続けに
みたのがよくなかったのかもしれません。「パワー・オブ・ザ・ドッグ」もノミネート作品であるというのに加え、西部劇であるという理由も
加わり、予告編も見ないまま劇場に行ってしまったのでした。

西部劇なのにイギリス人のカンバーバッチが主人公を演じているあたりから異変を感じるべきでした。最初のクレジットにBBC Films という
文字を見た瞬間、アレレと思い、重苦しい音楽が鳴り響くとイヤーな予感しかなくなりました。いつかストーリーが好転するだろうという願いも
むなしく、救いのないまま映画は終了しました。

終わったあとはカフェに行って、厄落としです。盛大にグチり、ぼやかないと今後の日常生活に支障がでます。近年、ハズれた
「ブルー・ジャスミン」、「女と男の観覧車」なども例にあげながら、いかに今回の映画がひどかったかをカミさんと言い合います。
軽く 30 分はぼやいたでしょうか。

皮肉なことに話が弾むという点では、映画として優れていた「ベルファスト」よりも弾んだかもしれません。

それにしても、昨今の西部劇というのはリスクが高いことをあらためて感じました。暴力性が高い「ジャンゴ(2013年)」、グロいシーンの
きつかった「荒野の誓い(2019年)」ときて今回の「パワー・オブ・ザ・ドッグ」です。そりゃあね、かつてのような、インディアンを悪者にした
一方的な価値観で映画を作成できないことは承知しています。とはいえ、古き良き流れをくむ西部劇を見たいって思うじゃないですか。

そんな映画は、ケビン・コスナー監督・主演の「ワイルド・レンジ(2004年)」が最後かなあ。見逃しましたけど、コーエン兄弟監督の
「トゥルー・グリット」は「勇気ある追跡」のリメークといいますから、ひょっとしたらよかったのかも。

西部劇にはリスクしかないと書きましたけど、それはアカデミーも同じかもしれません。以前ハズれた「ブルー・ジャスミン」もアカデミー賞
ノミネートを信じて見に行ったのでした。要するに学習せずに同じ轍を踏んだってことです。いい加減、学習しろよ、自分!


4 月 6 日 ドライブ・マイ・カー
アカデミー賞にノミネートされたというミーハーな理由から見に行ってきました。妻を失った男性が喪失感を埋めていく話です。原作は村上春樹。
3時間という長編でしたけど、時間の長さを感じることはありませんでした。

ストーリーやテーマに踏み込むと余計な方向にいってしまいそうなので、省略するとして、特にひっかかったのは、一つは車、もう一つは
ロケ地です。原作者からも監督からも「そこかよっ!」と突っ込まれそうですけどしかたありません。

主人公の俳優兼演出家が乗っているクルマは赤のサーブ900 クーペです。1992 年頃の車ですから、1982 年式のクルマに長く乗っていた
私からすると少し新し目の車です。BMW の 3 シリーズで言うと E36 の頃です。

東京では結構、目にしました。ベンツや BMW は数が多すぎるので、人とは変わったものに乗りたいという人が乗っていた印象です。
私からすると、変てこなデザインだし、走りもそれほど楽しそうには見えなかったので興味の対象外でした。

ところが、今回、映画で見たサーブ900、良かったですねえ。まず、エンジン音。アメ車のように腹に響くほどのボリュームはないものの、
こもったかんじのいい低音なんですよ。いかにもトルクがありそうだぞって感じ。4 気筒の 2000CC なのでそんな音が出そうな印象は
ありませんでした。低回転ターボのおかげかも。

2 ドア・クーペなので後部座席に乗り降りするたびにフロント・シートを倒さなきゃいけないとか、カセットテープをかけるところとか、ドアの
開閉音であるとか、いちいち、昔乗っていた車を思い出さずにはいられませんでした。



特によかったのが、主人公とドライバーが車内でタバコを吸うシーン。車内に匂いがこもらないよう、サンルーフを空けてタバコを挟んだ指を
屋根上にのばすシーン。夜なので屋根の上のタバコの火が印象的でした。あれ、やってみたかったなあ。映画を見終わった後、カミさんも
同じことを言ってました。二人ともタバコ吸わないのにね。

昔のクルマを思い出したのは私とカミさんだけではありません。息子も私たちとは別の地でこの映画をみて、ウチの車を思い出したと
言ってました。

もう一つひかれたのは広島というロケーションです。広島市内の平和記念公園近辺、高速道路、安芸灘大橋、大崎下島などです。特に
安芸灘大橋、大崎下島は行ったことのない風景なのでひかれました。

瀬戸内海の景色なんて、どこも一緒でしょと思われるかもしれません。しかし、瀬戸内海って四国側と本州側では景色が異なりますし、
島しょ部はまた異なります。私が知っているのは愛媛県の八幡浜市から新居浜市までと、しまなみ海道沿いの島、および広島県呉市や
尾道市にすぎません。

四国側、本州側、島しょ部の瀬戸内をすべてを回ったら、見たことのない景色はなくなるでしょうけど、そんなことは事実上不可能です。
ですから、こうやって、行ったことのない瀬戸内の景色を映画やテレビで見るのは新鮮です。

よい映画はさまざまな人がいろいろな観点で楽しめるというのが持論です。そういう点で、ストーリーとは関係のない車や景色も楽しめる
この映画は、よい映画です。


3 月 29 日 八幡浜フェリー・ターミナル
この 4 月から、八幡浜にあるフェリー・ターミナルが新しいものに変わります。



新しい埠頭には、乗船口までゆるやかなスロープが設けられており、キャスター付きのスーツケースを運ぶ際には便利そうです。
今までは階段を上がらなければ乗船できませんでしたからね。



こちらが古いフェリー・ターミナルです。





現在あるフェリー・ターミナルは約 60 年前にできたそうでして、今回新しくなるのは老朽化が原因です。いたしかたないこととはいえ、
なくなるのは寂しいですね。八幡浜に移住してまだ 7 年なので、それほど思い入れなんかないのでは?と思われるかもしれません。

でもね、今から 30 年以上前、東京から九州や沖縄にツーリングに行った際、別府からフェリーで八幡浜に 2 回も上陸しているんです。
夕暮れの中、穏やかな宇和海をすべるように八幡浜港に入っていく光景は今でも忘れません。

当時は、八幡浜出身の女性と結婚することや、自分が八幡浜に住むことになろうとは夢にも思っていませんでした。そんな時代に
利用したフェリー・ターミナルですので少し思い入れがあります。また、移住してからは、夕方に八幡浜港に行ってフェリーの発着を
見るのが楽しみでした。

新しいフェリー・ターミナルでも今まで同様の風景が見えるといいなあ。


3 月 29 日 嬉しいお便り
春といえば合格発表のシーズンです。昨年はウチでも合格発表に喜びました。今年も、ウチの子の幼馴染や、私のお知り合いの
お孫さんの嬉しいお便りが届きました。皆さん、コロナ禍の受験生活を無事に乗り切り志望の学校に入学が決まったようです。

それにしても、なんでよそ様のことなのに嬉しくなるんでしょうね。

ウチの子の幼馴染の場合、母親同士がママ友なのでお母さんからはがきで連絡をいただきました。LINE やメールじゃないところに
センスのよさを感じます。

アタクシ、はがきをいただくのが大好きです。特に、手間がかかっている一品もの。若い頃は友人、知人から素敵なはがきをいただくと
ストックしていました。手書きの絵が描いてあり、気のきいたコメントが添えられていると最高です。

そういえば、以前、電車のなかで隣の女性が手書きの絵のはいった絵日記のようなものを眺めていました。見たくて見たくて
しょうがなかったんですけど、おじさんが女性を覗きこむのはアウトなので、我慢しました。今でも忘れらないので、よほど魅力的
だったんでしょう。

私にも素敵な絵葉書こないかな。

3 月 29 日 探偵ナイトスクープ
先日、録画した探偵ナイトスクープを見ていたら、谷底に落ちたバイクを引き上げて欲しいという 50 代男性からの依頼がありました。
何でも、奈良県内の林道を走行中、がけ崩れに巻き込まれて谷に転落したというのです。

近くで作業をしていたという林業家のご尽力により、バイクは無事に引き上げられ、めでたし、めでたしとなりました。でもね、バイクに
ついていたドライブ・レコーダーが再生されたところで???となりました。

依頼者の話では山側からのがけ崩れに巻き込まれたと言っていますが、映像を見る限り、がけ崩れは起きておらず、林道の
石をよけたはずみでバイクをコントロールできなくなり、谷に転落したようにしか見えません。つまり単独事故です。

今回のバイク、ヤマハのテネレ 700 です。オフロード・バイクとはいえ、並列 2 気筒のエンジンを搭載して重量が 205kg もあります。
これに対して依頼者さんは、久しぶりにバイクに乗ったというリターン・ライダーです。若い頃、この方の力量がどれくらいだったかは
分かりませんけど、林道を走るのにテネレは大きく重すぎます。

かつて 250CC のオフロード・バイクで林道を走っていた経験からすると、林道を走るには車重が 140kg くらいが限度じゃないかと
思います。林道って、深いわだちがあったり、水でえぐられた溝があったり、落石が転がっていたりするので、ラインを瞬時に読んで
走らなければなりません。すぐにバイクの向きを変えないと、転倒したり、道路から外れたりします。

バイクの向きを瞬時に変える際にきいてくるのが車重です。私みたいな素人ですと 120kg くらいの 250CC くらいがせいぜいで
205kg もあるようなバイクじゃ怖くて走れません。

ちなみに、210kg の 750CC で林道を走ったこともありますが、ひたすらノロノロ走るだけで、楽しむ余裕はありませんでした。



大型車のコントロールがいかに難しいかは、大型自動二輪の試験科目に一本橋があることから分かります。幅が 30cm の板の上を走る
だけなのに、これが案外難しい。一速でノロノロと走っていると、わずかなラインをコントロールできずに落ちてしまうのです。それが
今回の方のようにもう少しスピードがでていて、未舗装路だったらコントロールするのは容易ではありません。

この方、引き上げたバイクを修理して乗りたいようですけど、やめた方がいいんじゃないかなあ。今度、同じ失敗をしたら、
ケガじゃすまないでしょう。

3 月 29 日 東北大地震
東北の地震、なかなか収まりませんね。昨年は震災後 10 年になろうかというのに 2/14 に地震が発生。その際は東北新幹線が使え
なくなり、子どもの受験にも影響しました。

そして今回の 3/16 の地震です。2/19〜3/15 まで愛媛に帰省していたウチの子は、東北に戻った翌日に震度 5 強の地震に
遭いました。幸い、ケガはありませんでした。

ウチの子は 2011 年の東日本大震災の際は東京におり、震度 5 弱の揺れを経験しています。今回の揺れはそれよりも強く、
生きた心地がしなかったといいます。東日本大震災の揺れよりも、以前、立川防災館で体験した地震体験室(震度7)の
ようだったとも言ってます。

机の上のものはすべて落ち、部屋の入口にある電気給湯器のパイプの一部が折れました。この給湯器、大人 2、3 人でないと
動かせないくらい大きく重いもの。それがずれてしまったというからすさまじい揺れ方です。

そんな揺れに一人で耐えていた子どものことを想像すると切なくなります。

2011 年の地震の余震なのかどうか分かりませんけど、東北地方では 2 年続けて震度 5 クラスの地震が起きています。
したがって今後も大きな地震は発生すると思った方がいいでしょう。

親としては子どもの無事を祈るばかりです。

3 月 29 日 ウクライナ侵攻で思うこと
2/25 にロシアがウクライナに侵攻してから 3 週間以上たちます。良し悪しは別として、ロシアが軍事力にものを言わせて
あっという間にウクライナを制圧するかと思いきや、いまだに制圧できていません。その理由についてはさまざまな報道が
されており、私がとやかく言えることではありません。それでも、今まで漠然としかわかっていなかったけれど、今回の侵攻で
明らかになったことがあります。それについて述べてみます。

1. 核を持っている国が戦争を始めると誰にも止められないこと
核兵器を使うと勝者側も敗者側にも痛みを伴うので、核兵器は戦争の抑止力になるというのが今までの考え方でした。しかし、
今回のロシアのように、核兵器を持っている国が通常兵器を使って戦争を仕掛けると、核兵器を使用するおそれがあること、
および第三次世界大戦にエスカレートするおそれがあることから、ロシアに対して軍事的制裁を加えようとか、国連軍を
派遣しようという動きにはなっていません。

しかし、今後、いかなる形で停戦、終戦になったとしても、ロシアのような国が核兵器を持っている限りその脅威はなくならない
ということです。北朝鮮、シリア、イランのような国が核兵器を開発したがっているのは、それがよく分かっているからに
ほかなりません。

2. 戦争になると原発が狙われること
ウクライナにある原子力発電所がロシア軍に制圧されたことにより、原子力発電所を制圧すると核兵器なみに相手をけん制
する能力があることが明らかになりました。チェルノブイリ、福島の事故により、原発でメルトダウンが起こるとどのようなことが
起きるかは周知のとおりです。私も 2011 年の 3 月にはハラハラしながら福島の原発の様子をテレビで見ていました。

侵攻先の国に原発があれば、そこが攻撃目標になることが今回、よくわかりました。さて、わが身を振り返ると、ウチから
20km のところに原発があります。今後、どこの国が日本を攻めるにせよ、米軍基地と同じくらいの優先度で原発を狙うことは
明らかです。これまで原発には自然災害に対する対策が追加で講じられてきましたが、よもや外国からの攻撃を想定した
対策はとられていないでしょう。

昨今、火力発電は二酸化炭素を排出するという理由から、政治家、産業界の一部からは原発を促進したいという野望が
感じられます。でもね、核のゴミ問題や経済性、事故の可能性を置いとくとしても、攻撃対象になる可能性を考えたら、
稼働している原発をこれ以上増やすという選択肢はないと思います。

3. 徴兵年齢
ウクライナから国外に避難できるのは女性と子供だけで、18〜60 歳の男子は戦力となるため国外に出られないという報道が
ありました。ウチの食卓でも早速話題になりました。もし、日本で同様のことが起きたら、避難できるのはカミさんだけです。
59 歳の私と 19 歳の息子はイザとなったら徴兵されるということです。

もし、そうなったら、カミさんだけが残され、私の祖母のような悲劇が繰り返されるかもしれません。祖母は私の母が 2 歳の
ときに病気で旦那さんを亡くし、女手一つで 3 人の子を育てました。しかし、苦労して育てた長男と次男を戦争にとられ、
二人はそれぞれ中国とフィリピンで戦死しています。

正直いって、戦争が起きたら子どもが徴兵されることはあっても、私は徴兵対象にならないだろうと思い込んでいました。
ところが、今回のウクライナ侵攻で、条件次第ではどうなるか分からないことがよくわかりました。

山登りをしていることから分かるとおり、私は比較的元気です。しかし、よる年波には勝てず、疲れやすくなっており、重い装備を
かついで戦場に行かされるのはかないません。実際、使い物にならないでしょう。でもね、もし私が徴兵される代わりに子どもが
免除されるなら、その際は弾除けでもいいから兵隊さんになりたいですね。何も若い人が犠牲になることはありません。


2 月 5 日 上には上
「ネットは、あなた程度の人が無数に存在し、あなたの趣味やあなたの立場や仕事なんでもないということ、あなたは匿名の大多数と
同じ存在だということを教えてくれる。」

これ、演出家の鴻上尚史さんの言葉です。そして、次のように続きます。

「あなたが何かの趣味に没頭し、ホームページを作り、コメントをもらい、自分が何かになったと興奮した時、ネットを検索すれば
あなたの趣味をあなた以上に追求し、確立している人が無数にいることを、ネットはあなたに突きつける。」

そうなんですよねえ。私もクルマやバイク、山登りなど、他の方のサイトをよく見ます。中には自分のサイトが恥ずかしくなっちゃう
くらい情報量や熱の多いサイトがありますから。

バイクやクルマの場合、それを購入できるか、購入した車両を維持・整備するためのガレージがあるかなど、最終的には
お財布の大きさ勝負というところがあるので、わが身を振り返ってしょんぼりすることが多々あります。でも、サイトの中には
お財布の大きさではなく、技術力、行動力、知識量など、熱量が明らかに違うのがあります。例えば、メグロという古いバイクの
あれこれを紹介しているサイトや、バイクを自分で作っちゃう方のサイトなど、私のサイトなんかよりも何倍も、何十倍も趣味を
追求しています。

他にも、昨年、東温アルプスを登る際に参考にさせていただいたこちらのサイト。こちらのサイトだけでもすごい情報量なのに、
さらに母体となるサイトがあるのでした。

無数に存在する匿名の存在としては、上を見るのはやめて、今年も身の丈にあったことをぼやいていきます。

2 月 5 日 諏訪崎散歩
外で歩きたいけど遠くに行くにはちょっと遅い。そんなときに来るのが地元の諏訪崎です。家からクルマで 15 分ほど。

駐車場から岬の突端までは遊歩道を歩いて 30 分弱。山道風のコースもあれば、海も見えるという素敵なところなのですが、イノシシの
生息地であるのと、暖かくなるとマダニがいるのがたまにキズ。

県内では毎年のようにマダニに噛まれて亡くなる方がおり、私も過去に 2 回噛まれています。なので、諏訪崎に来るのはマダニのいない
寒い時期ばかり。

久しぶりに突端まできました。



さらに、浜までおりて、目の前の海を独り占めしながら休憩。誰もいないので、気兼ねなくボーッとできます。



遠くまで行かなくてもこんなコースがあるのは八幡浜のいいところです。

2 月 5 日 滑床渓谷
いよいよコロナ第六波が愛媛県はおろか、八幡浜にも押し寄せてきているため、どこにも行けません。見に行きたい映画はあるんですけど、
松山には行かないようにカミさんから厳命されてます…。

人がいないところならよいだろうと、松野町の滑床渓谷に行ってきました。家からクルマで 1 時間半くらいで着く渓谷沿いの景勝地です。
雪景色を期待して行ったのですが、高知県との県境にあるせいか暖かく、雪は見当たりません。





遊歩道の終点まで行くと 2 時間かかるので、途中の「雪輪の滝」まで行くことにしました。大きな一枚岩を流れる滝です。夏になると、
キャニオニングのツアーの方が滑り下りるところでもあります。



滝につくと、以前はなかった展望台ができています。トイレも隣接しており立派なものです。ここで、最近のお楽しみ、カップ麺を
いただきます。寒いときに外で食べるカップ麺、おいしいね。



ホントは、ここからさらに「大嵩の滝」を目指して山中に分け入って行ったものの、場所がよくわからなかったので撤退。帰って調べたら、
もう少し登ればよかったようです。ああ、残念。

また行ってみます。

2 月 5 日 第六波
コロナ第六波、なかなか収まりませんね。11月、12月の小康状態は一体なんだったのでしょう。そんなに移動しては後が大変と分かって
いながら、各自、日本列島を活発に移動したものですから、お正月あけから感染者は拡大するばかりです。「分かっちゃいるけど
やめられねぇっ」てやつですね。かくいう、ウチだって年末に子どもが帰省しました。



また、正月は久しぶりに親戚が集まって会食しましたので、人のことをとやかく言えません。八幡浜では、第五派まで数人レベルの
感染者だったのが、第六波ではクラスターが何か所か発生しており、子どもの通っていた高校も含まれています。

昨年の大学受験の際は、松山や東京に受験しにいくときこそ心配しましたけど、地元は安全でした。今年の受験生は、地元でも
心配しなければならないので、さらに大変です。なんとか風邪にもコロナにもまけずに受験を乗り切って欲しいなあ。